第15話 のこされた詩
紙を置いたイオは、手を引いた。
筆も、文字も使わない。
声すら発さず、ただ空気に溶けるように“詩”を残したその手は、今は何も掴んでいなかった。
彼女は立ち上がることもなく、静かに座り込んだまま、目を閉じた。
何かを残したいと思ったわけではない。
誰かに届けたいと願ったわけでもない。
それでも、そこに“在る”ことだけが、確かに感じられた。
紙の上の線も、空間に描かれた指の軌跡も、
もう二度と再現できない。
だが、残らないからこそ“のこる”ものがある。
呼吸をひとつ、深く吐く。
風が、部屋をかすめる。
床に置かれた紙がわずかに揺れた。
読まれることのない詩。
意味を持たない震え。
けれど、それは確かに、今ここに“生きていた”。
イオはゆっくりと立ち上がる。
何も持たず、何も拾わず、そのまま足音を立てずに扉の方へと向かう。
記章を残すために来たのではない。
この空間に“在った”という事実だけが、彼女にとっての詩だった。
——その頃、非記録区。
αは休憩中、ポケットから小さく折りたたんだ紙片を取り出していた。
描かれた線は、意味を持たない。
記号にもならない、ただの“手癖”。
けれど、その紙に触れた瞬間、彼の内側で何かがざわめいた。
音ではない。記憶でもない。
ただ、肌の奥に“誰かの声”のようなものが触れた気がした。
自分で描いたはずなのに、自分のものではないような。
まるで、誰かがそれを“通して”語りかけてきたような感覚。
αはその紙をじっと見つめた。
破ることもできず、仕舞い込むこともできず、ただ手の中に置き続ける。
それは残響だった。
まだ“音”になる前の——
名前を与えられないまま残された、“詩のかけら”。
——そしてもう一人。
レインは巡回ルートを外れ、人気のない通路の隅で足を止めていた。
理由はない。
ただ、風がひと吹き、通り過ぎたその瞬間。
——聴こえた気がした。
笛の音。
かつてどこかで聴いたことのある、やさしい音色。
けれど、それは記憶にも記録にも残っていない。
ただの空耳だと片づけるには、あまりに“確か”な気配。
彼は立ち止まり、しばらく耳を澄ませた。
しかし再び風が吹いても、あの音は戻ってこなかった。
(……何だったんだ、今の)
だがそのとき、彼の胸の奥には確かに、何かが残されていた。
言葉にも、音にもならない。
ただ、そこに“在った”という、かすかな実感。
——それが“のこされた詩”。
誰にも届かなくても、誰かに認識されなくても、
たしかにそこに在り、誰かの感覚に触れていくもの。
イオが置いてきた詩は、いまも声を持たずに生きていた。
意味ではなく、理解でもなく。
ただ、“生きる”ということそのものとして——




