第14話 記章という痕跡
イオは、記章を描いた紙片を床にそっと置いた。
紙は軽く、わずかな空気の流れでも動きそうだった。
けれど彼女は、重しもせず、ただ“在る”という状態のままにした。
意味を伝えるためではない。
この場所に“あった”という事実を、誰にも知られずに残すために。
それが、イオにとっての詩だった。
部屋の空気が、ふと変わる。
風が吹いたわけではない。
気温が変化したわけでもない。
けれど、呼吸の深さが少しだけ違う。
耳の奥に届く反響音が、わずかに低くなった。
部屋の隅から吹いてくる空気が、ほんの少し角度を変えたように感じられる。
そうした変化を、イオは“記章が残す痕跡”と呼んでいた。
記章は、記録ではない。
構造でも、意味でもない。
それは、名前のつかない震え。
誰にも読まれずとも、誰かの感覚の奥に“引っかかる”ような存在の痕。
イオは立ち上がり、今度は紙ではなく、空中へ指を伸ばした。
ゆっくりと、腕を動かす。
掌を開き、空気をなぞる。
まるでそこに“かたち”があるかのように、丁寧に。
指先が風に触れる。
風が文字になるのではない。
動きそのものが、詩になる。
声は出さない。手が詩になる。
身体が、震えを描く。
そこにはインクも線も残らない。
けれど、確かに空間が“変わった”と感じられた。
——非記録区。
αは作業記録を終え、机の上の紙束を整えていた。
ふと、先ほど自分が描いた線の紙に目が留まる。
意味はない。意図もない。
ただ、捨てられなかった。
折りたたんで、そっとポケットにしまう。
理由はわからない。
でも、それだけは残しておきたかった。
記録されることのないもの。
けれど、どうしても“手放せない”。
αはその紙を持ったまま、立ち上がった。
まるで、それが誰かから預かった何かのように。
——そのころ、Refrain観測局。
ジンは空気振動に関する報告書を読んでいた。
通常の音波や干渉波とは異なる、非周期的な微細振動。
しかも、それは“誰かの指の動き”が空間に与えた影響として記録されていた。
言葉ではなく、行為そのものが痕跡を残している。
「……これが、詩?」
ジンは思わず呟いた。
詩とは構文ではないのか。意味を持たなければ、伝達ではないのか。
けれど、それを否定するようなデータが目の前にある。
指が動く。震えが生まれる。
誰にも読まれなくても、誰にも聴かれなくても、
空間に“残る”。
それはもう、記録ではない。
行為そのものが詩になるというのなら——
「これは“存在の痕跡”だ」
ジンは震える指でその記録をタグ付けする。
《非構文詩:空間動作干渉》——
詩が、誰かの行動の中に宿り始めている。




