第10話 ゐにしえの調べ
古文閲覧層の最深部は、ほとんど遺跡のようだった。
崩れかけた棚。落ちかけた照明。
足元には、過去に誰かが手放した紙束や道具がそのまま放置されている。
イオはゆっくりと足を進め、ひときわ奥まった場所で立ち止まった。
そこには、管楽器のような形をした古い物体がいくつも並んでいた。
どれも手入れされた様子はなく、長年の埃をかぶったまま、壁際に寄りかかっていた。
まるで誰にも吹かれなかった笛たち。
誰にも聴かれなかった旋律たちの、眠る場所だった。
その中のひとつ。
くすんだ銀色の細長い管を、イオは静かに見つめる。
(……夢で見た、あれに似てる)
形も、装飾も、記憶の中のものとは微妙に違っていた。
けれど不思議と、その笛だけが彼女の中に“反応”を呼び起こしていた。
イオはそれを手に取らなかった。
ただ、そっと隣に、竹の短冊を置く。
そこには、彼女が“音にならない旋律”として記した指の動きが封じられている。
読むことも、演奏することもできない。
けれど、風が吹けば揺れる。
そして、揺れがあれば、何かが響くかもしれない。
「……ここで、待ってて」
誰にともなく囁くように言い残して、イオはその場をあとにした。
その調べは、もう彼女だけのものではない。
——同じ頃。
非記録区の配線エリアで、αが作業の合間にふと動きを止めていた。
端末の操作を終え、何気なく背中を伸ばしたとき。
空気の流れに、わずかな違和感を感じた。
風が吹いたわけではない。
誰かが通った気配もない。
ただ、“何かがそこに在った”ような——そんな残響が、彼の皮膚の奥に滲み込んでくる。
(……なんだ、この感覚)
目を閉じて耳を澄ませてみる。
けれど、何も聴こえない。音はない。
それでも、彼の身体のどこかが“聴いていた”。
鼓膜ではなく、神経でもなく、もっと深い場所。
そこに響いているのは、名前を持たない音。
記録にも残らない、けれど確かに“あった”調べ。
彼は何も言わず、ただその感覚を受け入れていた。
——一方、中央観測局のジンは、別のデータ波形に注目していた。
干渉ログのひとつに、ほんの短い“旋律的変動”が現れていた。
数値にはならない。だが、パターンの中にわずかな“ずれ”があった。
それは誤差ではない。
繰り返しのリズムの中に生じた、ごく微細な“差異”。
その差異が、かすかな旋律を構成している。
「……音じゃないな。これは……気配の連なり?」
ジンは画面に向かって静かに呟きながら、未分類フォルダに新しいタグをつけた。
《非構文・調べ系干渉・個人検知:JIN/25-5-A》
記録されない旋律。
数値に還元できない詩。
けれど、誰かの中で“響きつづける音”。
それはすでに、ただのデータではなかった。
ゐにしえの調べは、再び誰かの中で鳴り始めていた。
それが名づけられる日は、まだ遠いかもしれない。
けれど、確かに“ここに在る”。
声を持たない旋律が、静かに、世界と共鳴し始めていた。




