第9話 耳に残るもの
レインは端末ログを確認していた。
先ほど一瞬だけ走ったノイズ。
気のせいにしてしまえばそれまでだったが、なぜか胸の奥にわだかまりのようなものが残っていた。
(……あれは、ただの誤作動か?)
システムは何も検出していない。
AIも異常報告を上げてこなかった。
それでも、耳の奥に残る“気配”のようなものが、じわりと彼を離さなかった。
音ではない。
けれど、それは“耳にこびりついている”。
彼は目を閉じて、その残響に意識を集中させてみた。
すると、脳裏にふいに浮かび上がった映像があった。
——白い部屋。
——手作りの笛。
——誰にも見られない場所で、それを吹こうとしていた、小さな少女の姿。
涙をこらえていたその表情だけが、鮮明に甦る。
音は思い出せなかった。だが、その“音の気配”だけは確かに耳に宿っていた。
(……あれは、イオ?)
名前を呼んだつもりはなかった。けれど、その問いが心の中に立ち上がる。
記録にはない。顔も思い出せない。
だが、その残響だけが“彼の中にいた誰か”の存在を揺り起こしていた。
レインは思わず、笛の音が聞こえてきた方向へと視線を向ける。
だが、そこにはただ風が通り抜けていくばかりだった。
——そのころ、古文閲覧層では。
イオが紙片を丁寧に束ねていた。
そこには声に出すことのない詩、音にならない旋律が刻まれている。
記章のように記したのは、誰にも読まれない笛の指使い。
それは演奏されることもなく、ただ“在る”だけの構造。
けれど、彼女の中でははっきりと鳴っていた。
言葉のない声。音を発しない音楽。
封じるように、彼女は短冊を重ね、布でそっと包んだ。
これはもう、読むためのものではない。
耳に宿るための詩。
聴いた者の中で、はじめて“響く”もの。
「……これで、きっと届く」
そう呟いた声は、誰にも届かない。
だがその確信だけが、彼女の呼吸を静かに支えていた。
同じ時間。
中央観測局の補助フロアでは、ジンがひとつのノイズ波形を再チェックしていた。
公式な観測ログではノイズ扱いされていたその記録。
けれど、彼には何か引っかかるものがあった。
他の干渉ログと比較しても、構造が違う。
再現性がなく、規則性もない。
それなのに、身体のどこかが“これを知っている”と告げてくる。
「……意味を持たない。けど、残っている」
彼は静かに呟きながら、その波形に個人的なタグを付ける。
《耳の残響》
意味のない言葉の並び。
けれど、確かに“誰かの中に残る音”が、ここにはあった。
干渉波としての分類もできない。
既存のどの詩式にも属さない。
だが、耳の奥——それも感覚というより、もっと奥底に。
“記憶のどこか”に引っかかるその感触。
「……誰の詩だ?」
自問した声は、小さなモニターにだけ反射していた。
けれど彼は気づいていた。
この波形は、きっと誰かが聴いた“ことのある”詩なのだ。
意味を伝える詩ではない。
構造を組む詩でもない。
ただ、誰かの中に“宿る”ための詩。
それが今、沈黙の奥で静かに動き出している。




