第7話 旋律のかけら
古文閲覧層の奥は、さらに静かだった。
天井が低く、空気も重い。まるで時間そのものが沈殿しているかのような空間。
イオは一歩ごとに足音を殺しながら、資料の山に近づいていった。
棚からこぼれ落ちた紙片、石板、破れかけた布の束。整然とはほど遠く、誰かが途中で投げ出したかのように散らばっている。
彼女はその中から、ひときわ古びた紙の断片を拾い上げた。
薄い、指に貼りつくような質感。
そこに記されていたのは、言葉には見えない記号のような模様だった。
ぐにゃりと曲がった線。
何かを繰り返すような点の配列。
仮名でもなければ、数式でもない。
けれど見つめているうちに、イオの中にひとつの感覚が芽生える。
(……響いてる?)
音はない。だが視線の動きと呼吸のテンポが、紙に描かれた線の“流れ”と重なっていく。
意味はわからないのに、不思議と落ち着く——まるで、旋律を感じているようだった。
(言葉が消えても、音のかたちは残るのかもしれない)
イオはそう思いながら、紙片を胸元に近づけ、そっと呼吸を合わせた。
口を開かず、ただ内側の振動で、そこに書かれた“流れ”を追いかける。
かすかに、喉の奥が共振する。
聴こえるのではなく、“思い出される”ような震え。
その瞬間、指先に触れていた紙の端が、ふるりと震えた。
ほんのわずか。
風でも、手の動きでもない。
むしろ紙が“反応した”ように思えた。
イオは目を見開く。
錯覚かもしれない。
けれど、たしかに“何か”が返ってきた気がした。
(……あなたは、ここにいたの?)
誰かの声が宿っていたのではない。
それ自体が、声だった。
彼女は静かに紙を置き、別の破片にも手を伸ばす。
それぞれに異なる線や点が描かれ、どれもが意味の外側にある。
けれど、ひとつだけ共通していることがあった。
——すべてが、繰り返しの“間”を持っていた。
途切れて、重なって、また戻る。
まるで呼吸や脈拍のようなリズム。
イオはしばらくのあいだ、それらをひとつずつ拾い、静かに読み取っていく。
読むのではなく、なぞる。
聴くのではなく、響かせる。
やがて、外の世界で。
離れたドメインにいたレインは、不意に立ち止まった。
現在地は巡回ルートの中間区画。人工照明の整った、騒音もない空間。
そこに“音”はなかった。
それなのに、彼の耳の奥で微かな“残響”のようなものが鳴った。
(……今、音がした?)
すぐに周囲を見回すが、異常はない。
端末も静かだ。警報も鳴っていない。
けれど、その“響き”は確かに耳に残っていた。
それは、かつてどこかで聴いたような、優しい笛の音のようでもあった。
思い出そうとすればするほど、遠ざかる。
(これは……何だ?)
彼は自分の端末を開き、ログを確認する。
記録上、何も残っていない。
けれど、胸の奥にこびりつくような震えだけが、確かにそこにあった。
その震えは、誰かが発した音ではない。
むしろ、自分の中から“浮かび上がった何か”に近い。
彼は眉をひそめたまま、しばらくその場を動けなかった。
——遠く離れた場所で、音にならない詩が響き始めていることを、まだ知らぬまま。




