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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第3部 言葉の帰還 第25章 ゐにしえの調べ

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第7話 旋律のかけら

古文閲覧層の奥は、さらに静かだった。

天井が低く、空気も重い。まるで時間そのものが沈殿しているかのような空間。


イオは一歩ごとに足音を殺しながら、資料の山に近づいていった。

棚からこぼれ落ちた紙片、石板、破れかけた布の束。整然とはほど遠く、誰かが途中で投げ出したかのように散らばっている。


彼女はその中から、ひときわ古びた紙の断片を拾い上げた。


薄い、指に貼りつくような質感。

そこに記されていたのは、言葉には見えない記号のような模様だった。


ぐにゃりと曲がった線。

何かを繰り返すような点の配列。

仮名でもなければ、数式でもない。


けれど見つめているうちに、イオの中にひとつの感覚が芽生える。


(……響いてる?)


音はない。だが視線の動きと呼吸のテンポが、紙に描かれた線の“流れ”と重なっていく。

意味はわからないのに、不思議と落ち着く——まるで、旋律を感じているようだった。


(言葉が消えても、音のかたちは残るのかもしれない)


イオはそう思いながら、紙片を胸元に近づけ、そっと呼吸を合わせた。

口を開かず、ただ内側の振動で、そこに書かれた“流れ”を追いかける。


かすかに、喉の奥が共振する。


聴こえるのではなく、“思い出される”ような震え。


その瞬間、指先に触れていた紙の端が、ふるりと震えた。


ほんのわずか。

風でも、手の動きでもない。

むしろ紙が“反応した”ように思えた。


イオは目を見開く。


錯覚かもしれない。

けれど、たしかに“何か”が返ってきた気がした。


(……あなたは、ここにいたの?)


誰かの声が宿っていたのではない。

それ自体が、声だった。


彼女は静かに紙を置き、別の破片にも手を伸ばす。

それぞれに異なる線や点が描かれ、どれもが意味の外側にある。


けれど、ひとつだけ共通していることがあった。


——すべてが、繰り返しの“間”を持っていた。


途切れて、重なって、また戻る。

まるで呼吸や脈拍のようなリズム。


イオはしばらくのあいだ、それらをひとつずつ拾い、静かに読み取っていく。

読むのではなく、なぞる。

聴くのではなく、響かせる。


やがて、外の世界で。


離れたドメインにいたレインは、不意に立ち止まった。


現在地は巡回ルートの中間区画。人工照明の整った、騒音もない空間。

そこに“音”はなかった。


それなのに、彼の耳の奥で微かな“残響”のようなものが鳴った。


(……今、音がした?)


すぐに周囲を見回すが、異常はない。

端末も静かだ。警報も鳴っていない。


けれど、その“響き”は確かに耳に残っていた。


それは、かつてどこかで聴いたような、優しい笛の音のようでもあった。

思い出そうとすればするほど、遠ざかる。


(これは……何だ?)


彼は自分の端末を開き、ログを確認する。

記録上、何も残っていない。


けれど、胸の奥にこびりつくような震えだけが、確かにそこにあった。


その震えは、誰かが発した音ではない。

むしろ、自分の中から“浮かび上がった何か”に近い。


彼は眉をひそめたまま、しばらくその場を動けなかった。


——遠く離れた場所で、音にならない詩が響き始めていることを、まだ知らぬまま。



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