第4話 記章のかたち
金属板が軋むような音とともに、イオは通気孔の出口近くへと這い出た。
辿り着いた先は、旧記録施設の裏手にある、誰も訪れなくなった小さな広場。
排気口の名残が残るだけのその場所は、かつてイオが幼い頃、上層の管理室から見下ろしていた場所だった。人影も巡回もない。記録システムの索敵圏外。
それは、もう“地図の余白”だった。
イオはしばらくその場に立ち尽くし、空気のにおいを嗅ぐ。
潮の香りとも、鉄の錆びともつかない風が、わずかに吹いている。
気配があるようでいて、何もない。
だが、だからこそ——この場所には“詩”を置ける。
彼女は、先ほど通気孔の中で書きつけた紙片を、そっと取り出した。
そこには意味を持たない線のようなものが、いくつも擦れ、震え、にじんで刻まれている。
——誰にも読めない。けれど、確かに“書かれた”。
それはイオにとって、“存在の輪郭”そのものだった。
「詩って、こういうものだったのかな……」
誰にともなく呟きながら、紙片を地面に置く。
風に揺れて飛んでしまいそうだったが、イオはあえて重しもせず、そのままにした。
詩とは、誰かに読まれるためにあるものではない。
たとえ吹き飛ばされても、忘れ去られても、いまこの瞬間だけ“ここに在った”ということ。
それが彼女にとっての記章だった。
そして、もうひとつ。
イオは立ち上がり、右手の指先をそっと宙へ掲げる。
金属の壁に沿うように、空中にふわりと何かを描く。
音もなく、意味もなく、ただ流れだけがそこに生まれる。
発音されない詩。記録されない線。
だがそれでも、彼女の指は確かに“詩の構造”をなぞっていた。
空間が、わずかに震える。
目に見えるものは何もない。ただ、空気の密度が一瞬だけ変わったような——そんな感覚。
「……これも、わたしの声」
彼女は微笑むこともなく、ただ呼吸を整え、風の流れに身を委ねた。
そのころ、非記録区にある整備エリア。
αは作業端末の前で再び指を止めていた。
端末の表示に異常はない。数値も応答もすべて正常。
だが、次の指示を入力しようとした瞬間、わずかに遅延が生じた。
1秒にも満たない、ほんの一拍の“沈黙”。
αは眉をひそめ、画面を見つめ直す。
エラーは出ていない。記録にも残らない。
だが彼には分かっていた。あれは単なる遅延ではない。
(……何かが、触れた)
彼は無意識のうちに背後を振り返った。
通路の奥、誰もいないはずの方向へ。
そこには、ただ冷たい空気が流れているだけ。
けれど、その空気に——わずかに“誰かの在りし痕”のようなものが残っていた。
名前も、姿も、記録もない。
それでも彼の身体は、確かにそこに“何かがいた”と感じていた。




