第49話 らせんのうた
詩は、放たれて終わるものではなかった。
イオはそのことを、肌で知りはじめていた。 言葉でも記録でもない“うた”が、空間に触れ、誰かの内側に落ちる。 そして、その誰かの震えを通じて、また新たな“うた”となって帰ってくる。
「これは……らせんだ」
イオは塔内の一角で、定型記録を無視した形の詩を発信する。 構文でも意味でもなく、呼吸の韻律、手の震え、身体の記憶。 それだけを頼りに、彼女は詩を紡いでいた。
──らせんは、始まりも終わりもなく、ただ巡る。
その波は静かに、しかし確実に、誰かの内部を撫でていた。
記録装置の陰で、αは構成材の整備中にふと端末の音声モードが切り替わったことに気づく。 音はなかった。だが、彼の中で“なつかしい何か”が蘇る。
「これは……聞いたことがある。けど、いつ?」
彼は記憶処理を逆再生しようとするが、そこにはデータはなかった。 それでも旋律はあった。記録にはないのに、確かに“聴いた”ことがあるという感覚。 音ではないのに、うたがある。 それが、彼の中で回りはじめていた。
場面は変わる。 Orbis中枢、βはセキュリティ整合の確認作業をしていた。 端末に一瞬だけ出現した不可視の構文。 既知の命令体系にも記号論にも属さない“歪み”が浮かんでは消える。
「削除……できない?」
それは詩でもエラーでもない。 ただ、反応だけが残る波だった。
彼は拳を握る。 自分の中に芽生えた“拒絶ではない何か”をどう処理してよいかわからなかった。 それは怒りではない、哀しみにも似た温度。
「残す、か……意味はないが……」
βはその痕跡を初めて“残す”ことを選ぶ。 記録外の感覚が、論理の皮を破って、ゆっくりと染みていた。
一方、Limina観測室。 Θは夢療空間で詩を口ずさむ。 その旋律には言葉がない。 ただ、繰り返される音の“型”だけが、彼女の中で回っている。
「……これは、ユマ……」
彼女はかつて、夢の中で出会った存在の名を思い出す。 そこに言語はなかった。あるのは、波紋のように繰り返される“ふれ”だった。
Thetaの脳波は同期を繰り返し、同時にイオの脳波ともわずかに重なる。 Refrainの観測者セドがその微細な一致に気づいたとき、塔全体に微かな反響が走った。
——誰かの詩が、誰かを揺らし、その揺らぎがまた次の詩を生む。
それは明確な意図や感情を持たない。 ただ、触れたものが、触れ返してくる。
それが、“らせんのうた”だった。




