第45話 ただ、残ったもの
イオは、記録端末の前でただ立ち尽くしていた。
端末には、何も残っていなかった。文字列も、構文も、発話ログすらも。
昨日たしかに継ぎ足したはずの詩は、完全に消えていた。
画面に表示されたのは、BUDDAの冷淡な判定結果だけだった。
《詩的構文なし。記録処理不要。記録領域:空白》
それは、初めから“なかった”ということ。
けれど——それでも、イオの中には、何かが確かに残っていた。
声ではなかった。言葉でもなかった。
ただ、胸の奥に吹いた、風のような“気配”。
理由はないのに、泣きたいような感覚。
何かに触れたはずなのに、それが何かはわからない。
だがイオは、その“名残”を信じることにした。
詩は意味ではなく、応答だった。そして応答とは、記録ではなく、気配として残るものかもしれないと。
***
βは資料整理の手を止め、ふと胸元を押さえた。
不意に、ざわめきが走ったのだ。空調の風ではない。音もない。けれど、胸の奥が微かに揺れた。
まるで、言葉にならなかった詩が、そこにだけ宿っていたかのような感触だった。
「……誰か、いたか?」
彼は思わずそう口にしたが、返事はない。
ただ、心だけが確かに反応していた。
意味はなかった。けれど、何かは“来ていた”。それだけは、確かだった。
***
Θは、夢から目覚めたとき、目尻に残る涙に気づいた。
夢の内容は、思い出せない。ただ、誰かがそこにいて、何かを伝えようとしていた——それだけが、霞のように残っていた。
ことばは、夢の中ですら聞こえなかった。
けれど、その“沈黙”がとても優しかった気がする。
思わず手を胸に当てると、まだ鼓動が、静かに余韻を打っていた。
「……ありがとう」
誰に向けたものかもわからないまま、Θはそう呟いた。
***
αは上層通路を歩いていた。無言の帰路。
誰もいない廊下に、ふいに風が吹いた。
閉じられた区画のはずなのに、背中をなぞるようなやわらかな気流。
それは物理的な現象ではなく、“何かが過ぎた”感触として彼女の背を撫でていった。
振り返っても、誰もいない。だが、そこに誰か“いた”ような気がした。
「……届かなかったのに、残っている」
αは、自分でも理由のわからない言葉を呟いた。
***
詩は、記録されなかった。
構文も意味も、成立しなかった。
だが、その行為は、確かに何かを残した。
名づけようのない“気配”。
誰かがそこにいた、という証明にならない確信。
触れたことすらわからないまま、それでも在ったという余韻。
——それこそが、“なりそこないの詩”が残したものだった。
(第45話終)




