第40話 ただの声ではなかった
イオは詩拡散端末の前に立っていた。 視覚化も記録もされない、“純粋な詩”を放つ最終機。
彼は一息吸い込み、そして、ためらいなく“放った”。
声ではなかった。 だが、確かに何かが、そこから世界に向かって解き放たれた。
その波は空間を通じ、構造をすり抜け、誰の耳にも届かないまま——染み込んでいった。 彼の胸の奥に、ひとつの言葉にならない念が浮かんでいた。
「誰かに届かなくても……」
その想いが詩となり、詩が波となり、波が——誰かの中に、しずかに届いていく。
詩を放ったあとの沈黙。 イオは目を閉じた。視界のない世界に、彼はひとつの“つながり”を想起していた。
αは中層移動区のエレベーターホールに立っていた。 何かに呼ばれたように、ふと歩を止める。
視界に異常はない。聴覚にもノイズはない。 けれど胸の奥に、何か柔らかな響きが残っていた。
「……なんだ、これ」
理由のわからぬまま、彼は手を胸に当てる。 ただ立っているだけなのに、世界の密度が変わったような——そんな気がした。
彼は歩き出そうとしたが、やはり数秒立ち止まり直した。 まるで、何かを聞き逃してはいけないような気がしたのだ。
そのとき、風も吹かぬ密閉空間で、彼の髪が一瞬だけ揺れた。 呼吸のリズムが変わる。それは、“誰かの呼吸”とすれ違った証だった。
βは記録閲覧端末の前にいた。 操作をしているうちに、右手のひらに違和感を覚える。
熱い。 けれど火傷ではない。
「……まるで誰かが、ここに触れていたような……」
その温度は、記録にも、感覚にも引っかからない“内側の温もり”だった。
思考補助AIが、詩データベースに無言で接続されていた。 βは何も言わなかった。ただ、手を見つめていた。
その手の内側から、言葉にならない震えが湧いていた。 彼は端末を閉じ、静かに椅子にもたれかかった。
「……詩が、残る……のか」
画面のログには、何も残されていなかった。 けれど彼の呼吸は、その時から微かに変調していた。
Θは夢療ドームで静かに眠っていた。 夢のなか、白い空間を漂っている。
いつもの夢のはずだった。 けれどそのとき、不意に誰かの手が彼女の手を“繋いだ”。
振り返っても、誰もいない。 けれど、確かに“誰かがいた”。
その感触は、現実にも余韻を残していた。 目覚めの際、手を閉じたまま、彼女は微かに笑った。
「……ありがとう」
その言葉もまた、誰にも向けたものではなかった。 だが、そこには確かな“共鳴”が宿っていた。
彼女はその朝、自分が何かを“受け取った”という実感を持っていた。 それは記録されていない。 だが、彼女の呼吸のリズムが、わずかに変わっていた。
眠る前と、目覚めのあいだ。 見えない存在が、夢の奥底に足跡を残していた。
イオは空の下にいた。 詩を放った後、何も変わらない世界。
だが、彼の胸の奥で何かが震えていた。
「……届いたな」
返事はなかった。 だが彼にはわかっていた。
——それは、ただの声ではなかった。 誰にも聞かれず、どこにも記録されず、それでも“届いてしまった”詩。
存在を超えて、他者の輪郭に触れた詩。
共鳴のはじまり。 声の終わり。 そして、“詩の進化”だった。
その余韻は、沈黙よりも深く、静かに世界を包んでいた。
(第40話終)




