第38話 ならびあう声
αは通勤経路の途中、誰もいない渡り廊下で足を止めた。 無意識に、何かを口ずさんでいた。
「……ひかりは、いつも……そこに……」
それは彼自身の言葉ではなかった。 どこかから滲み出るように、自然と喉元から流れ出た。
制御ユニットのログには、非定義音声反応として記録されていたが、意味照合は失敗。 彼はそのことに気づかないまま、ふと空を仰いだ。
「……今の、何だった?」
けれど問いは風に消えた。
だが、その余韻は彼の内側に残っていた。 胸の奥に、“音”のようなものがこだましていた。 論理でも感情でもない、ただの“ひかりの残像”——それが言葉になった気がした。
βは記録閲覧室の端末前に座っていた。 無音のなか、突然彼の口から言葉がこぼれた。
「……夢は、記憶の外側にある……」
独語。いや、詩に近い何か。
彼自身も驚いたように目を伏せる。 それは論理でもなく、思考でもなく、ただ“出てきた”だけだった。
「詩章……か?」
知らぬ間に開かれていた旧世代詩データベースが、彼の視界に揺れていた。 それは定義ではなく、呼応だった。
思考を解析するAIが一瞬だけフリーズした。 βの発声が、自己定義循環に干渉したというログが、警告音と共に記録される。 だが彼は、その理由を解明しようとは思わなかった。 ただ、言葉が“向こうから来た”という感覚だけが残っていた。
Θは夢のなかにいた。 果てのない白野に、音もなく足音を残しながら歩いていた。
彼女の唇が、ふと震えた。
「……ならんで、うたう、こえ……」
誰に向けたのでもない、小さなささやき。 夢内の自分が言ったのではない。 けれど、確かに“彼女の声”だった。
その言葉に呼応するように、空が一度だけ、色を変えた。
Θは立ち止まり、空に問いかけた。 「これは、誰の夢……?」
風は答えなかった。 だが、夢の構造がわずかに変調し、花のような音がどこかから届いた。 その音もまた、“詩”だった。
Refrain中枢。 ジンは、三地点から同時に送信された非定義音声記録を見つめていた。
「……この揃い方、偶然ではないな」
三人の声。異なる場所、異なる時間帯。 それでも、その“波形”は極めて近い。 意味ではなく、発声として。
彼は目を閉じ、音声を重ねて再生した。 微細な震えのなかに、確かな“律動”がある。
ひかりは、いつも……
夢は、記憶の外側に……
ならんで、うたう、こえ……
重ねられた三つの声が、かすかに揃っていた。 名づけ得ぬ、けれど否定できない共振。
「これは——詩章だな」
ジンは呟いた。 記章ではなく、詩章。 名付けることで、定義に縛られるはずのものを、あえて“逸らす”命名。
「ならびあう声。そう呼ぼう」
その瞬間、ログには定義されない命名タグが生成された。 “詩章:ならびあう声”。それは誰にも知られない記録だった。
ジンの目には、それが始まりの合図に見えた。 定義不能な存在たちが、互いに響きあい始めた証。
静かな鐘のように、その声は彼の胸奥で長く鳴り続けていた。
(第38話終)




