赤魚の煮つけ
同級生の結婚のことがあって、元同僚のノロケまじりの愚痴の電話は、むしろ救いだった。お互いに結婚したいと思っていて、お互いに相手の事情にちょっとずつ譲って、トラブルはありながらも解決しようとしているカップルだから。ついに入籍したと報告があったときは、自分のことのように嬉しかった。
冷凍の赤魚が安かったときに買ってあった。もちろん生魚でもいいが、冷凍だと保存がきいて、下処理がしてあるので、そのまま煮つけにできるのが便利だ。今回は赤魚にしたが、カレイの切り身のときもある。たまにうろこが残っているので、凍ったまんま包丁の背でガリガリやって取り除く。
頭を取った状態でしっぽの先まで十センチほどの小さいものなので、二尾食べることにして、凍ったまんまホーロー鍋に入れ、ポットで沸かしたお湯をかけ、すぐにお湯を捨てる。こうすると臭みが取れる。やらずに煮ると、濁った味というか、なんだかあまり美味しくないので、毎回ちゃんとやる。きっちりお湯を捨てたあとに、しょうが、日本酒、しょうゆ、麹黒酢、ポットのお湯を入れ、五か所ほど穴をあけたオーブンシートを落し蓋にして煮る。中火で煮汁が沸騰してから、十分くらい。火を止めてから五分ほど置いてから食べる。多めに作って、残りを翌日に温め直して食べると、味がしみて、さらに美味しい。
魚を食べていると、健康的な生活をしている気分になるのがありがたい。煮つけだと塩分が多いかなーと思うので、塩分を排出してくれるカリウム豊富な青菜のおひたしとかを副菜にする。
よし、寝たきり老人にならないような気がしてきたぞ。
読書友達の彼女からメールがあって、駅前のカフェで会うことになった。俺の休みに合わせてくれたのだが、現在彼女はパートをやめているらしい。
カフェに入って本日のコーヒーを買い、店内をきょろきょろ見回した。彼女はまだ来ていないのかな。
と、思った瞬間、窓際の席に座っている女性が手を振った。え? 俺に? だ、誰?
よくよく見ると、彼女だ。まるきり変わっていた。席に近づいて、
「お久しぶりです」
と、あいさつされても、まだ信じられなかった。
髪は不揃いなボブカット? というのか、肩につかない長さに切って、以前あったこめかみの白髪ごとダークブラウンになっていた。薄く化粧をしていて、頬がややふっくらしている。薄いコートをたたんでバッグと一緒に隣りにおき、明るい色のセーターにパンツスタイルで、すごくおしゃれだ。そして、十歳は若返っていた。俺より年上だと思っていたなんて、嘘みたいだ。髪形や服装の変化だけでなく、肌の張りというか、つやというか、体の中からエネルギーが発散されている感じ。
俺が呆然としていると、彼女は照れたような笑みを浮かべる。
「違って見えるでしょう。前は本当にひどかったから」
「え、えーと、…見違えました」
向かいの席に座りながら、まだ信じられずにいた。顔立ちが似ている妹じゃないかと思うくらい。
「お礼を言いたくて」
「え? お礼?」
何も思い当たることがない。
「はい。きっかけをくれたので」
「きっかけ…」
馬鹿みたいにおうむ返ししていたら、彼女が微笑んだ。
「実家に連絡するきっかけです。私、結婚を反対されて、家出同然で結婚してから、実家に連絡していなかったんです」
「俺は、何もしてないと思うんですが…」
「コーヒーです」
彼女はカップを持ち上げた。
「コーヒーをありがとうございました」
「え? 前にコーヒーを差し上げた件ですか? あれは猫のもらい手を探していただいたから…」
「あのコーヒーがきっかけになったんです。本当です」
真面目な顔で言った。
「妊娠してから、コーヒーは全然飲んでなかったんです。恥ずかしながら、デキ婚なので、それも結婚を反対された理由です。だから、最後に飲んだコーヒーは実家ででした。元夫の就職先は小さな会社で、両親は彼を気に入らなくて、口論になって、家を出ました」
彼女はカップを両手で包み込み、ちょっとうつむいて、話し出した。
「大学の同級生だった元夫とつきあうようになったのは、前の彼氏と別れた直後に、熱烈アプローチを受けたからです。あんなに誰かに求められたことなかった。舞い上がってしまったんです。彼についていい噂を聞かないって、友達にも反対されたのに。大学卒業を前にしたころで、私はもう就職が決まっていて、卒論を書いてました。気をつけていたつもりでしたが、妊娠してしまいました」
就職直前に妊娠は、まずいのでは…。
「結婚して、入社はそのまましましたが、配置を急きょ変更していただいたり、当然、仕事に支障が出ました。ろくに仕事を覚える間もなく産休に入りましたし、本当に馬鹿でした。自分の親とは喧嘩していて頼れませんでしたし、元夫の両親は遠方でした。息子を保育所に預けて、産後半年もしないうちに復帰しましたが、息子は体が弱くて、保育所からたびたび呼び出しがあり、落ち着いて仕事ができる状況ではありませんでした。職場では立場がなく、夫はわたしの能力が足りないからだと責め、結局、仕事を辞めました」
「大変でしたね」
彼女は歪んだ笑みを浮かべる。
「ざまあみろ、と言われました。元夫に」
「えっ!」
「辞めさせてやりたかった、やっとそれがかなった、って。元夫は希望していた会社に入れませんでした。わたしが入社した会社に、元夫は落ちてたんです」
それ、夫なのか?
「最初から、それが目的だったそうです。わざと妊娠させて、退職に追い込むつもりだった。それだけでわたしと結婚したそうです。自分で言うのもなんですが、大学時代に結構成績がよかったんです。だから、就職活動もわりにスムーズでした。元夫は、学生時代に自分より優秀だった女を、従えるのが快感だったそうです。専業主婦になったんだから、弱い立場だと自覚しろと言われました」
「そ、それは…、モラハラってやつでは…」
「今ならわかりますけど、当時は夫の言うことを否定するなんて考えもしませんでした。子供のころから、わたしは勉強だけをしてきて、成績がよかったから家の手伝いも免除されて、生活力というのか、そういう面の能力は皆無でしたし、一般常識が疎かったんです。お前は常識がない、と言われたら、信じました。元夫に家事ができないことを馬鹿にされながら、料理を覚えて、バッグにはいつも裁縫セットを入れておくのが女の常識だと言われて、不器用なのに息子のものを縫ったりしました」
裁縫セットを持っている女性は都市伝説だと思ってたけど、こんな理由があったとは。
「実は前の彼氏も、今考えるとモラハラだったと思います。わたしは本当に男性を見る目がないんです。前の彼氏は、東京の会社に就職するからついてこい、と言いながら、でも結婚する気はないっていう…。何をしたいのかわからないようなことを言われて、ぐだぐだの状態で別れました。別れられただけよかったんでしょうね」
なんか、彼女の見方が変わった気がするが、いや、わかる気もする。話していてすごく頭のいい人だというのはすぐにわかったが、なんだか、ちぐはぐに感じられる部分があったんだ。ぴかぴかのステンレスを古いゴムでつないでいるような。
「専業主婦でいたのはわずかなあいだで、パートに出ろと言われました。仕事を辞めさせて、ざまあみろと喜んでいたのに、今度はわたしの正社員の給料がなくなったと文句を言ったんです。でも、パートで働きだしても、しょっちゅう熱を出す息子のために、早退や欠勤ばかりで、すぐクビになってしまいました。勉強ができただけの馬鹿だとか、能無しだとか、元夫はさんざんわたしをなじりました。変に聞こえるでしょうが、わたしは勉強ができることに罪悪感があったんです。姉はあまり成績がよいほうではなくて、両親がわたしだけを可愛がると言って、いつもわたしを責めました。自分の成績がいいのが悪いのだ、でも、成績が下がると両親が悲しむので、葛藤したくらいです。そういう育ち方をしたので、元夫がわたしを責めるのも当然だと思ってたんです。なんであんなの我慢してたんでしょうね。今から思うと、まったく理屈にあいません。でも、そのときは元夫の言うことが正しいのだと思ってました。その後、元夫がわたしをいたぶるのに飽きると、離婚されました」
「…そんな」
「子供と路頭に迷え、と言った元夫の顔はすごく楽しんでました。すがりつきました。でも捨てられました。家財道具をみんな持ち出して、元夫は家を出て行ったので、病弱な子供を抱えて、本当に困りました。近所の人が、市役所に相談しろと教えてくれたので、相談して、なんとか安いアパートを借り、パートを見つけました。息子は相変わらずしょっちゅう熱を出して、パートを何度もクビになって、どんどんパート先がアパートから遠くなって、辛かったです」
その状況なら、生活保護を申請してよかったんじゃ。でも、そのくらい一般常識に疎い人なんだろうか。
「無感覚になってました。多分、でないと耐えられなかったから。でも、コーヒーをいただいて、久しぶりに飲んで、人間に戻った気がしました。大げさなことを言ってると思うでしょう。でも、経済的に困窮して、最低限の食事しか摂れませんでしたし、嗜好品なんて一切買ってませんでした。本当に、本当に、久しぶりのコーヒーだったんです。それで、ある晩、残ってたコーヒーを、息子が寝てから楽しもうとしてたら、寝たはずの息子が起きてきたんです。息子がコーヒーに示した態度は見たでしょう? にがい、これイヤ、キライ! 疲れきってたときにそんなことを言われて、その上、息子はカップを叩き落としたんです。畳がコーヒーまみれになりました。わたしはまだ一口も飲んでませんでした。何か、頭の中で音がしました。まずい、と思いました。自分が何をしてしまうかわからない」
……ものすごく怖い考えになってしまった。
「携帯だけ持って、外に飛び出しました。息子が追いかけてきましたが、玄関を閉めて、開けられないように扉の前に座り込んで、警察に電話しました。助けて、何をするかわからない、息子を殴るかも、助けて、助けて。息子が泣きながら扉を叩いてました。聞こえてましたけど、息子が元夫に思えて、扉を開けられなかった。わたしの嫌がることをわざわざするのが、元夫そっくりでした。助けて、助けて。携帯でそればっかり言ってました。意味不明の訴えだったと思いますが、すぐにパトカーが来てくれました。薬物中毒とか、そういう人間だと思われたのかもしれません。だめな母親ですよね。でも、警察が保護してくれて、息子と引き離してくれて、その晩、何年ぶりかに六時間熟睡したんです。ちゃんと寝たのは、本当に、久しぶりだった。眠るって、あんなにすっきりするものなんですね。起きたとき、頭の中のもやが晴れた気がしました」
彼女が子供を虐待しなかったのは、すごいと思う。自分だったら、その状況で暴力を解放の手段にしないとは限らない。
「最初、虐待を疑われたんだと思います。もちろん息子の体に傷跡一つありません。虐待なんてしてませんでしたから。児童相談所の人が話を聞いてくれて、息子は一時預かりになりました。児童相談所の人の紹介で、私はカウンセラーと話をすることができました。ノイローゼだと言われました。ひどく痩せていましたし、栄養失調でもあると。警察は元夫に連絡しました。警察ってすごいですね、元夫が息子を引き取らないと言うと、元夫の両親に連絡してくれました。息子は今そっちにいます」
俺は、自分の両親のことがあるから、彼女が息子を捨てたことを肯定できない。どんなときでも母親は母親であってほしいという感情が、理性より強く出てしまう。でも、俺が仕事で嫌なことがあったときは、一人の部屋に帰って、カルシウム摂るぞ、とぶつぶつ言いながら食事してやり過ごす。疲れ切って帰ってきて、イヤイヤ言われて、楽しみにしていたコーヒーを叩き落とされたら? 俺なら何をするかわからない。
「その過程で、わたしの両親とも連絡を取りました。わたしが、というより、警察が。わだかまりがあって、最初はうまく話せませんでした。でも、わたしの状況を知ると、両親はすぐに迎えに来てくれました。しばらく実家にいたんですが、姉が結婚して同居していたので、実家近くに両親がアパートを借りてくれました。費用を払えないと言ったら、わたしが実家に置いていった貯金があるからいい、と言われました。そういえば、結婚のときは家出同然でしたから、子供のころから貯めていた通帳がそのままになっていました。実際は、両親が払ってくれたんだと思いますが。両親は弁護士さんを頼んでくれて、その方がとても優秀なんです。結婚していたときにつけていた家計簿で経済DVを立証できるとか、メモ欄に書いてた元夫に言われたことがDVにあたるとか、離婚後一円も養育費をもらってないこととか、元夫に交渉してくれました。慰謝料を請求できるが、今後の養育費と相殺するということで、元夫が息子を引き取ることにしてくれました。わたしは、もう息子を育てられる気がしなかったんです。あまりに元夫に息子が似て思えて。ダメな母親だと思いますが、弁護士さんは、元夫はもっとダメな父親だと慰めてくれました。確かに、息子が生まれてから、父親らしいことを何一つしてませんでした。抱いたことすらなかったんです。元夫は、実家に戻されました。弁護士沙汰になったことを、元夫の両親が激怒して、目の届く場所にいさせるため、無理矢理会社を辞めさせたみたいです。何もない田舎で、それが嫌で大学は実家を離れたのに、結局実家に戻ることになったのは、不本意だったでしょうね。実質、息子を育てているのは元夫の両親です。元夫の両親は息子が戻ってきて、孫もいて、満足してるようだと、弁護士さんが言っていました。わたしは面接を受けて、再就職をしようとしてます。男性を見る目がないんだから、今後はおつき合いも、もちろん結婚もなしにして、ひたすら働くことにします」
彼女の状況で、子供を育てることができるかと言われると、無理だ。子供が祖父母宅に行ったのは仕方のないことだ。身につまされて、胸がきゅっとするが。
「いただいたコーヒーがきっかけをくれたんです。だから、お礼を言わなくては、と思ったんです。人間に戻してくださって、ありがとうございました」
「いえ、そんな…」
ただコーヒーを買っていっただけだ。でも、妹が若草色のカーディガンをもらって気持ちが変わったように、たかがコーヒーでも人の気持ちを動かすことができるのかもしれない。
俺と妹は二人で助け合って耐えた。でも、彼女は一人で、幼児を育てるという重荷まであった。そんな状況の彼女に、常に母親であれ、なんて、誰が言える? 理想はお腹を満たしてくれない。彼女が子供を捨てたことが許せないと俺が思うのは、祖父母や親についていろんなことを俺に言った無責任な外野と同じだ。
「わたしのことを、何も詮索せずにいてくださって、ありがとうございました。シングルマザーだと、しょっちゅう事情を訊かれたんです。どうして離婚したの、旦那さんは何が不満だったの、あなたにも問題があったんでしょう…。こちらが言葉を濁しても、根掘り葉掘り。すごく嫌でした。だから、ただ本の感想をメールしあえるのが心の安らぎでした。いただいた子猫の写真を、よく見返してました」
にこっと笑う。それまで見たこともないような、屈託のない表情だった。
「何も訊かずにいてくださったから、何もかも話す気になれました」
生き生きとして見える彼女が、本来の姿なんだろうな。
「今はお元気そうでよかったです」
「赤魚の煮つけ」
冷凍赤魚 小さめのを二尾
日本酒 カレースプーン二杯
醤油 カレースプーン一杯
麹黒酢 カレースプーン一杯
(麹黒酢がなければ、酢コーヒースプーン一杯弱と砂糖コーヒースプーン三分の一くらい)
チューブしょうが 四、五センチ分くらい
お湯 カップ三分の一くらい




