8、モータル
九月は、八月のボーナストラックだった。
ハレーションを起こす日差しに、あらゆるものが白飛びしていく。毒の滴るような夏の折り返し地点でもあった。
「よう」
ご他聞に漏れず、上野駅不忍口の周辺も、焼けたアスファルトに増幅された熱気に支配されている。
高架下の影にいても、それは同じことだった。
すでに先に待っていた安納は、振り返って無言で片手を挙げる。
「ひでえ顔だな」
「これでも、昨日は丸一日寝たんだが」
体の厚みが、一回りぐらい縮んでいる。着ているものが身頃にあっていないのは、激務と運動不足のせいだろう。
顔色はましだったが、頬はこけて、目の周りも暗い。
「どっかで休むか?」
「いや、うちで飲もう」
そのままタクシーを拾い、無言でセーフハウスへ向かう。
目的地から少し離れた通りで降り、飲み物やつまみを揃えると、狭い小路の奥にある小さなマンションに潜り込んだ。
「何度、お前に恨み言を言ってやろうかと思ったよ」
ぐったりと座り込み、吐息を漏らす。
缶ビールを手渡そうとして、友人は首を振り、水のボトルを手に取る。仕方なく、信二もそれに倣った。
「あれを提出した時、死ぬかと思った。嘲笑、罵倒、叱責、それを搔き分けて、証拠集めと各省庁への根回し。その後は、アホの議員どもの頭に、事実を噛んで含めてねじ込むような、折伏の連続だ」
怨念としか言いようのない、それでもかなり抑えた調子の言葉。
酒を遠ざけたのも、呑んでしまえば、これ以上の悲惨を叫ぶことになるからだろう。
「終わったと思えば、外務省の連中と角突き合わせて、海外のお客さん用の『パンフレット』を制作。それ以上にめんどくさかったのは、警視庁の連中から、ねちねちと嫌味を喰らったことだ」
「警視庁が、なんで?」
「『A』と交戦した『異世界』の連中の情報をよこせってな。要は、テロリストを自分の管轄でのさばらせてたのが我慢ならん、って話らしい。知るかってんだ、クソが」
あの青年が残した資料には、さりげなくそのことが添えられていた。
未確認生物Aと交戦していた存在が、明かされないうちは、納得しないものも出てくるだろうということで。
『魔王軍の残党ですが、現在人間として生活しています。我々は、連中の身分を保護する条約を締結しました。ゆえに、あなた方に開示できるのは、『そんな連中がいた』という事実だけです』
明らかに情報ですらないものを開示されたのだから、治安維持の組織としては、怒らないわけはないだろう。
そして、八月にやってきたアメリカの調査団は、開示された事実に紛糾した。
「驚いたのは、勇者の何人かが、その場に呼ばれてたことだ」
「お前らが手配したんじゃないのか?」
「恐ろしいことに、俺たちはおろか、誰も、そのことを把握してなかった」
岩倉悠里と辻隆健、それと三条日美香が、会談の席に現れ、事実確認の説明を行った。
一応、日本政府としては、情報の開示タイミングをできる限り伸ばす、という姿勢を取るはずだったのだが。
「その上、ここでの会話とすべての情報を『各国首脳部に発信しろ』と、要求されたよ」
「な……なに!?」
「さらには『勇者』に対して、各国政府機関からの私的公的な接触の一切を禁止する、ってな」
実のところ、『日米合同調査』は、八月の段階でいったん解散となり、今後の予定は不明という発表がなされていた。
九月現在、アメリカはおろか他国からの打診も、公式には行われていない。
当然、友人の言ったような事実も、公開されていなかった。
「もちろん、そんなものは認められるわけがない。調査団の連中も鼻で笑う始末だ」
「だろうな」
「そして、その七日後に、情報開示は行われた」
「なんで!?」
友人は両手で顔を覆って、ため息を吐いた。
「先月、CIAの長官が『退任』した話は聞いてるか?」
「病気療養のためって情報くらいは」
放り出された、一枚の写真。
ある意味、時代錯誤的な代物に、特徴的な執務室の画像が映っている。
豪奢な執務卓、見事な起毛が施された絨毯。テラスを望む大窓があり、白を基調にした壁も、きれいに整えられていた。
そんな、絵にかいたような政府高官の個室に、異常が映っていた。
白壁に黒々とした、シミが、こびりついている。
人の形をした、シミが。
「同じものが、全世界の首相、大統領、国家主席、政治的指導者の、執務卓に置かれていたそうだ。もちろん、日本にもだ」
「みせしめ、だってのか?」
「分からん。多分、永遠に」
不穏を感じて先制したのか、あるいは命令を下したことを確認したか。
いずれにせよ世界最高峰の情報機関の長を、ためらいなく、妨害も受けず『消去』できる存在であると、明確に示したことになる。
「面白い話をしてやろうか」
「ホントに面白い話か? それ」
「日本に置かれた各国大使館。そこの駐在職員連中がな、この一月あまり、配置転換やら長期の病気療養で、入れ替わりまくってんだよ」
具体的な国名は挙げなかったが、尋常ではない数の『追加実例』があったことは、友人の様子から想像に難くなかった。
「……棍棒外交かよ」
「外交ですらない。黙って首を垂れて従え、それ以外は許さない。そういうことだ」
二人は水を飲み干し、ため息をつく。
空調の利いた部屋の中で、この事件の奇妙な結末を、無言で見つめていた。
「あの連中は、こうなることを見越してたのかな」
沈黙を破ったのは、信二からだった。
「弱腰でぐずぐずな日本の態度も、自国の保身と利益のため、貪欲に他人の庭を荒らしてくる、厚顔無恥な連中の行動も」
「結果、日本は一種のモラトリアムを手に入れた。あちらさんからは、合同調査再開の、ごの字も出てこないそうだ」
信二は思い出していた。
すでにおぼろな影になりつつあった、それでも魂を凍らせるような奈落の記憶を。
「国民への情報開示は?」
「その点だけは、あらゆる国家で意見が一致してる。"なかったことにしろ"、だとさ」
「……だよな」
いくら現代地球で、宗教が求心力を失いつつあるとはいえ、『神の実存』などを公開すれば、世界は確実に『発狂』する。
なにより、彼ら『外なる神々』が、地球人類を忌まわしき者として扱い、その絶滅を願っているなど、伝えられるわけがない。
「まさか『原罪』が、実在してるとはな。その上、どれほど赦しを乞うても、肝心の神様は、絶対に振り返らないときた」
「神様は死んだ、悪魔は去った。神も悪魔も降り立たない荒野に、俺たちはいる。って奴だな」
そして、地球は回り続ける。
この星で生きる定命の人々が、その愚かしさを解消することもできずに争い、いつか自らの毒にこらえきれなくなって、死に絶えるまで。
そうなったとき、外なる神々は、憐憫を垂れてくれるだろうか。
「これは、非公式な話なんだが」
そんな信二の妄想を断つように、友人は告げた。
「日本に、いわゆる『諜報機関』を作る動きが出てきた。俺も、そっちに従事するかもしれん」
ある意味、当然と言えた。
確かに敵は超然とした存在で、それに対して何も手を打てなかったのは仕方ない。
だが、その隙を容易に他国から突かれ、有象無象のテロリストに、戦車まで準備されたという事実は、『守る側』の組織の威信を粉砕した。
「この国の現状で、どこまでやれるかはわからんけどな」
「その一切が、無駄だとしても?」
「知るか。神なんざ、クソくらえだ」
信二は、水のボトルを投げ捨てて、ビール缶を手に取った。
友人もそれに倣う。
「気が向いたらな」
「それでいい」
互いの缶を打ち合わせ、温い液体を干す。
その一杯を最後に、信二は部屋を後にした。
外気は相変わらず暑さしか感じず、滝のような汗が流れ始めた。
「――?」
たっぷり一駅歩いたところで、切っておいたスマホの電源を入れると、一通のメールが届いていた。
差出人は、本永充。
『今来れる? 日本にいる』
ぶっきらぼうすぎる連絡に苦笑しつつ、必要なことを聞き出すために返信する。
奇妙な探索の旅の果てにふさわしい、インタビュー相手。
連絡を終えると、ビルと電車の高架に挟まれた空を仰ぐ。
そこには、湿度でにじんだ紅が、広がっていた。




