プロローグ 誰も選べなかった日
人は、生まれを選べない。
才能も、環境も、
時代さえも、自分で決めることはできない。
それでも。
「どう生きるか」だけは、
誰にも奪えないはずだと、
私たちはどこかで信じている。
この物語は、
世界を救う英雄の話ではありません。
最強の能力者の話でもありません。
これは――
自分の力を恐れた少年が、
それでもなお「選ぶ」ことをやめなかった物語です。
運命はある。
理不尽もある。
どうにもならない現実も、きっとある。
けれど。
もしも運命との関係を、
もう一度だけ選び直せるとしたら。
そのとき、人は何を選ぶのか。
静かな崩壊から始まるこの物語が、
あなた自身の「選択」を見つめ直す時間になれば幸いです。
――蒼月のレゾナンス
それは、静かな崩壊だった。
最初に壊れたのは、街ではない。
人だった。
一人の男が、叫びもなく崩れ落ちた。
糸が切れた操り人形のように、膝から。
次の瞬間、彼の隣にいた女性も、
そのさらに向こうの子供も、
まるで見えない波に呑まれたかのように、次々と地面へ沈んでいく。
恐怖が、伝染していた。
目には見えない。
触れることもできない。
だが確かに、何かが人から人へと渡っていく。
共鳴。
本来それは、力と力を調和させるための現象だった。
だがその日、共鳴は調和ではなく、増幅として働いた。
恐怖が恐怖を呼び、
絶望が絶望を重ねる。
感情は制御を失い、都市全体へと拡がっていく。
誰かの叫びが、空を裂いた。
「止めろ……!」
だが、止める方法を知る者はいなかった。
すでに共鳴は、個人のものではなかった。
都市そのものが、一つの感情となって暴走していた。
能力者の放った光が、意志とは無関係に肥大する。
炎が走る。
壁が溶ける。
空気が震える。
制御不能。
それは、誰の意志でもなかった。
それでも――
誰かの選択の結果だった。
研究区画、地下第七層。
警告灯が赤く明滅し続けている。
端末の前に立つ一人の女性がいた。
水月叶音。
彼女は理解していた。
これは事故ではない。
必然だった。
「……まだ、間に合う」
震える指で画面を操作しながら、彼女は振り返る。
部屋の隅、小さなベッド。
黒髪の幼子が、静かな寝息を立てている。
何も知らない。
何も選んでいない。
ただ、そこに在る命。
叶音は歩み寄り、その頬に触れる。
温かい。
確かに、生きている。
「ごめんね……」
それは謝罪だったのか。
祈りだったのか。
警告音が一段と鋭く鳴る。
共鳴臨界まで、残りわずか。
画面には都市全域の共鳴構造が映し出されていた。
無数の線が絡まり、増幅し、収束しきれずに暴れている。
止めなければ。
だが同時に、彼女は知っていた。
止めるという行為そのものが、新たな強制になることを。
本来、それは同意によって結ばれるものだった。
だが今、この都市に同意はない。
あるのは、恐怖だけだ。
それでも。
彼女は選ばなければならなかった。
すべてが崩壊する未来か。
あるいは――
可能性を一つだけ残す未来か。
叶音は幼子を抱き上げる。
その瞬間。
世界が震えた。
都市の共鳴が臨界を超える。
音が、消える。
光が、消える。
炎が、止まる。
それは終わりではなかった。
停止だった。
選択が、停止した瞬間。
誰も選べなかった。
誰も止められなかった。
ただ一つの命を残して。
月が出ていた。
崩壊した都市の上に。
瓦礫の中で、幼子が目を開ける。
泣き声はない。
ただ静かに、夜空を見上げている。
その瞳には、まだ意味はない。
運命もない。
選択もない。
だが、いずれ知ることになる。
運命は与えられるものではない。
選び直すものだと。
月は何も語らない。
ただ、すべてを見ていた。
――それが、すべての始まりだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
あの日、都市は崩壊しました。
けれど、本当に壊れたのは、
街だったのでしょうか。
それとも――
人の心だったのでしょうか。
共鳴は、本来、誰かと繋がるための力です。
それが恐怖を増幅させたとき、
何が失われ、何が残ったのか。
そして、
ただ一人残された命は、
何を選ぶことになるのか。
物語はここから始まります。
静かな崩壊の先にあるものが、
救済か、支配か、
あるいはまったく別の何かなのか。
どうか、その答えを見届けてください。
次話より、十八年後の世界へ。




