第3話 天眼
【遠つ国日記 慶長十七年 六月一日】
あれからさらに一ヶ月あまりが過ぎた。居候の身にて、朝は井戸から水を汲み、薪を割ってから素振りをするのを日課としている。隻眼にも慣れ、体も動かしやすくなった。今日も素振りを終えたのち、長光を構え、あの日のことを思い出す。
あの時、我は何も為すことができなかった。手も足も出ず、今も情けないと存ずる。「体調の悪さゆえ仕方なきこと」と頭の隅でささやく弱気を、心の内なるもう一人の我が「ただの逃げ口上」と叩き潰す。いかなる状況にあっても、活路を見出して戦うこそ真の侍。されど我は無力にして、すぐに倒れた。あれは侍として失格であったと、今も強く覚えている。
宮本武蔵との決闘を思い返すたび、悔恨は尽きることがない。されど、この悔恨に道まで閉ざされるわけにはいかぬ。この剣が折れぬ限り、我がなすべきは、ただ剣の道を歩むことのみ。大切な誰かを二度とあのような目に遭わせぬよう、侍としての誇りを取り戻すには、剣によってのみ成すべきであろう。今はそれだけが、我にとっての道である。
———【了】
(カツ……)
木にぶら下げた小さな木片を木刀が打ち、振り子のように揺れた。小次郎は隻眼の遠近感に慣れるため、吊るし木打ちの修行をしていた。
”…………あの頃は、ただの遊戯だった”
物心つく頃には、吊るした木を正確に打ち込んでいた。それを思い出して行っているが、今は遙かに小さな木片を木刀の剣先だけで打ち込み、距離感を調整していた。振り切った直後を狙い、力を抜いて打つ音を消す練習も加えている。
「大分、隻眼の距離感が掴めた。…………休憩とするか」
小一時間、吊るし木打ちを続けた後、持ってきた水を飲み、目を瞑り正座した。
”こうして心を無にすると、眼帯の下に、黄泉の女より授かりし『天眼』の力が発現する”
この力は黄泉の国の女から授かったと小次郎は思っているが、何に使えるのかはまだ分からない。ただ目を瞑ると、木々の脈動、葉の呼吸。これらすべてが、生命の気として見える。眼帯をしていても、光の筋が花や木、葉の形に近づいてくるのが分かった。
しばらく風や草木の擦れる音、虫の羽音に耳を澄ませて光景を味わう。再び目を開け、傍らの長光を手に取り立ち上がる。鯉口を切る隙間から蒼紫の光が漏れ、抜けばその刀身は雷光のように紫に輝いた。
”生き物でない、お前の光は、なぜこんなに強いのだろうな”
小次郎は剣先を上に向け語りかける。眼帯を外せば家の壁や茶碗など非生物も光を発していることが分かるが、長光の光は眩し過ぎるほどだ。
徐に正眼の構えをとり、半眼で刀身と己を一体とする。風が草木を揺らし、一匹の羽虫が剣先に止まった。意識を集中すると、静謐な長光の光がさらに強まり、その圧力に耐えかねたかのように虫は落ちた。小次郎は半眼を解き、再び長光を天にかざす。
”剣にも気を流せるのか。『切っ先に気を込める』という意味が、こうして天眼を通して見るとよく分かる”
◇ ◇ ◇
「こちらに運んでおくれ。ウェリスはそっちを見ておやり」
村長に付き添われて、二人の木こりが運び込まれた。エスタは怪我の酷い方を診療台に運ばせ、軽症の方をウェリスに任せる。重症の患者は意識が混濁していた。
「魔犬に襲われた。森の奥からではなく、十匹ほどの群れが、村の南東の森で待ち構えていやがった」
ウェリスに手当を受けながら、木こりは痛みに耐えて語った。
「ああ、傷口を見れば分かる。『瘴気』が立っているからね。厄介だ」
エスタは軽症の村人の言葉に耳を傾けつつ、回復薬を重症患者にかけ、手を当てて呪文を唱え始める。エスタは短く息を吐き、言葉少なに治療を始めた。その所作には長年の蓄積が滲んでいるようで、傍目にはただの手当て以上の慎重さが見て取れた。
「厄介だね。内臓に回っちまっている。ウェリス、そっちの処置が終わったら、ポーションをありったけ持ってきておくれ。これは長丁場になるよ」
診療所が騒然とする中、小次郎が戻ってきた。家の中を一瞥すると、状況をすぐ理解し、エスタに声をかける。
「なにかすることは無いか?」
「ああ、丁度良い。水を汲んで湯を沸かしておくれ」
「心得た」
村人たちは奇妙な服装の見知らぬ男の出現に驚いたが、すぐに患者に意識が向く。小次郎は火鉢に大きな鍋を置き湯を沸かす。ふとエスタを見ると、手の辺りに濃い緑色の光が現れ、患者の傷口へと注がれている。そして患者の体には、まるで内なる火傷のように、ドス黒い瘴気が下腹部から左腰にかけて広がっているのが見えた。
「エスタ。悪い物、貴殿の言う『瘴気』が特に深く根を張っているのは、下腹部から左腰の辺りだ」
エスタは、一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに柔らかく微笑んで治療を続けた。
目を瞑ったまま、エスタは光を制御するかのように手を動かす。しばらくするとドス黒い瘴気は薄れ、患者の呼吸も落ち着いた。
「もう大丈夫じゃろ。切開も考えていたが、せんで済んだわい。ウェリス、折角沸かした湯じゃ、傷口を洗ってやっておくれ。…………そうじゃな、小次郎。あんたの見立てが良かった。今日は夜通しの治療かと思ったけど、早く済んで大助かりじゃ。患者の負担も少ないじゃろう」
エスタは小次郎の不思議な眼のことには一切触れず、ただ笑みを浮かべ、労うように彼の肩を叩き、愛用の椅子に腰掛け村長と会話を始めた。その会話ぶりには、何事にも軽々しく踏み込まぬ慎重さと、知る者だけが持つ含みが滲んでいた。
村の人々はほっと安堵し、診療所は次第に落ち着きを取り戻す。
小次郎は長光を立てかけ、火鉢のそばに腰を下ろし湯気を眺めた。慣れぬ異国にあって、初めて己の力で人を助けることができた。この剣だけではない、天眼の力もまた、この世界で役立てる。それが何よりも嬉しかった。
外では森の風が木々の葉を揺らし、どこかで遠吠えのような音が風に混じっていた。小次郎はその音に耳を澄ませ、胸の内でまた一つ決意を固めた。




