第2話 魔法
【遠つ国日記 慶長十七年 五月二日】
目を覚ましてから、すでに二十日ほどが過ぎた。胸中に渦巻くものを整理せねばと、エスタ殿より古びた手帳と筆を賜った。「遠つ国日記」と題して綴ってゆこうと思う。
家々の屋根は石や瓦に代わり、軒は柔らかき曲線を描く。道を行く者らは和やかに語らい、見知らぬ我にも警戒を見せず、礼を尽くす。まことに、仙境に迷い込めし心地なり。
さて、エスタ殿という方術師は人の傷や病を癒す術に長けておられるが、昔は諸国を巡る冒険者にて、多くの秘術と戦場の療法を体得しておられたり。されば、彼女の用いる薬草知識、手当ての術式、そして術の実戦応用は常の治癒師に勝るものがある。先日、重傷を負った者が運ばれてきた折、薬を与えたのち手をかざし呪文を唱えられた。すると手元より光が溢れ、不思議なる紋様が宙に浮かび、怪我人はたちまち回復した。拙者もまた、その得体の知れぬ術により命を救われし一人なり。命の恩人とはいえ、警戒心を完全に解くものではなけれど、その根の優しさには救われておる。
この地にては流れる力が日ノ本の「気」に似ておるが、外より触れやすく、術を補助し増幅しやすき性質を有する。それ故に、われらの回復は早まること多く、剣士としては幸い至極なり。
———【了】
「小次郎さん。眼帯が出来ましたよ。ちょっと付けてみてください」
「ウェリス殿には色々と手数をお掛けする。かたじけない」
「ウェリスで良いわ。殿なんて、お貴族様しか使わないわよ」
彼女の名はウェリス・サナティ。海岸に倒れていた俺を見つけたのは彼女であり、エスタ殿の徒弟として治療や村の仕事を手伝う人物だ。最初、少女の様に見えたが、妙齢な女性であった。天眼は珍しがられるから隠した方がよい、と助言をくれた。ウェリスは俺の包帯を解き、眼帯を結んでくれる。紐を結ぶ手がやけに顔に近づいてくる。
「じっとしてて」
「……くすぐったいな」
「動いちゃだめ。すぐ結べるから」
「……っ」
近すぎる距離に、俺はただ固まった。
「ふふ、そんな大げさな」
吐息が頬にかかり、背筋がむずがゆくなる。その折、病床の母に代わって幼き日に髷を直してくれた一番上の姉の手つきを、ふと思い出した。あの柔らかな手つきと重なり、胸が少し熱くなる。
「似合うと思うわ」
「……そうか」
「ねえ、小次郎さんのお国って、どこか遠くなのかしら?」
俺も答えられなかった。ここがどのくらい遠いかすら分からぬのだから。
「拙者にも分からぬ。気づけばエスタ殿の布団の中であった」
「そうなんだ。それで、小次郎さんは剣士なの? その大きな剣を持っていたけど」
「剣か。ああ、これか。日ノ本では剣士とも言うが、侍とか武士とも言う。拙者は侍の端くれだ。今度は拙者からも聞いて良いか?」
ウェリスは涼しげに笑い、小さくうなずいた。
「エスタ殿の方術は、ウェリスも使えるのか?」
「方術? ああ、魔法ね。治癒魔法は使えるわよ。ちょっと手を出して」
ウェリスは俺の手を取り、自身の手を重ねた。
「本当は呪文はなくても発動するんだけど……『女神アトノースよ。我に力を貸したまえ』」
緑色の光が重ねた手の周りに流れ、模様が現れる。俺の手に心地好い温もりが広がった。
「温かい感じがする」
「ええ、生き物にはマナという力が流れていて、治癒師はその流れを整えてあげるの。怪我をするとマナが途切れるけれど、繋いでやれば回復が早くなるのよ。病も同じで、乱れを戻せば癒えるの」
昔、師に気の扱いを教わったことを思い出すが、口には出さなかった。
「なるほど。それで、その時あふれた緑の光と不思議な模様はなんだ?」
「えっ、光? 何かの模様?」
「ああ。ウェリスの体の奥、中心から光が流れ出し、手の周りに幾何学的な市松模様のような輪っかが確かに見えた」
「……光も、市松模様も分からないけど、それって魔法陣かしら。魔法を使うときは心に強く描かないと発動しないの。でも、それが見えるなんて、婆ちゃんからも聞いたことないわ。天眼の力かしら」
ウェリスは顔を近づけ、眼帯を覗き込む。
「眼帯はちゃんと付いてると思うけど……」
大きな瞳に見つめられ、俺はたじたじになり、気恥ずかしくて咳払いした。
「あっ、ごめんなさい」
ウェリスは顔を赤らめ、うつむく。
「眼帯はちゃんと付いてるみたいね。それでも何か見えるのかしら」
俺は眼帯をめくり、左目を開けた。途端に、あらゆるものが光の奔流となって押し寄せ、眩しすぎた。ウェリスの顔すら、輝きに満ちたオーラに溶けてしまいそうに見えた。
「眼帯を付けていないと眩しすぎる。これからは必需品だな」
「それは良かったわ」
俺は左目の真実を語らなかった。黄泉の国の女から授かったなどと言えば、気味悪がられるだろうと考えたからだ。
「その魔法は、ここでは誰でも使えるのか?」
「使えない人の方が多いわ。私とおばあちゃんは、治癒魔法は得意だけど、それ以外は苦手。魔法使いならもっと大きな魔法を使えるの」
ウェリスは虚空に手をかざし、聞き慣れぬ呪文を唱える。赤い光が集まり、やがて火の玉が生まれた。
「これは面妖な」
「ファイアボールって言う魔法よ。私にはこの程度が限界ね」
やがてウェリスは仕事があると家に戻った。残された俺は試しに手をかざし、呟いてみる。
「女神アトノースよ……だったか?」
光も、模様も現れぬ。声を張り上げても何も起きない。
「まあ、そうだろうな……拙者はやはり己の剣にのみ生きるほかなし」
首筋を叩き、削り出した木刀を握る。正眼に構えて心に言い聞かせる。
「この異国で、まずは隻眼での遠近感に慣れることだ」




