ダイマン竹上戦争
「おめでとうさん」
竹上幸三郎が祝いの言葉をかけた。酌は竹上に代わり秘書が東郷にした。竹上は年々衰えており酌をする力もなくなっていた。
「恐縮です」
と、東郷が酌を受けた。
東郷が民営化後のNR西日本の副社長に就任した。そして竹上の愛人が経営している料亭「恵山」で祝いの席を設けた。出席者は東郷、竹上、砂岡、石山、そして竹上の秘書の5人である。部屋は車椅子の竹上に配慮された造りで、車椅子の押し引きが容易になった机が配された。
竹上が話を続けた。
「それにしても、よく考えたことや。これで助かった。新幹線の話がなくなったときは、どうしたものかと思ったが、これで格好が付いた」
竹上が推し進めていた再開発事業で最大の看板であったのが、大阪の京橋に新幹線を通すものであった。しかし再開発地域から東京方面と大阪湾国際空港を結ぶ新幹線計画が頓挫した。チェルノブイリ原発事故の恐怖心で、和歌山県内の原発建設予定地3カ所の内2か所が建設できなくなった。
その結果、見返りに建設する原発新幹線計画も大幅に縮小され、フル規格の新幹線でなく在来線の高速化新線とされた。そして京橋への新幹線敷設もなくなる。
これは竹上としては由々しき問題であった。再開発地区の価値が上がらなくなり、事業に暗い影を投げかけたからである。
東郷は竹上に借りがあった。それNR西日本を東海地方と西日本地方に分けないようにするため、竹上からの多大な「支援」を受けていたからである。東郷は元々、日鉄の一官僚に過ぎないため、竹上からの支援がなければ裏工作をするための材料を揃えることができなかった。
NR西日本が分けられなかったため、東海道新幹線と山陽新幹線の二大ドル箱路線を持つことができた。これは開発中のリニア新幹線を早期実現において弾みの付くものであった。これだけの借りを竹上に作った東郷は、その借りを返さなければならなかった。
そこで在来線ではあるものの、京橋と大阪湾国際空港を結ぶ路線を建設することに着想した。更になにわ筋線建設計画も統合する形で新線建設することにした。それが第三セクター「上方高速鉄道」である。
上方高速鉄道は2つの路線を建設するものとされた。「京橋尼崎連絡線(現:NR東西線)」となにわ筋線である。そして、それぞれが相互乗り入れできる構造するものだった。これによって、京橋から大阪湾国際空港にアクセスできるようにした。
この代替案に竹上は一定の満足を得た。竹上とすれば新幹線で東京に直通することも望んでいたが、それは致し方がないとして諦め納得していた。
この三セクである「上方高速鉄道」は一種の芸術品と呼べるものであった。多くの利害関係者たちが持っている課題や願望を叶える器であった。主だった関係者たちの思惑を列挙すると以下のようになる。
NR西日本:限界に達している大阪駅の負荷を分散するための新駅建設。
竹上興産:再開発事業「大阪マーケットシティ」の利便性向上による価値向上。
大阪府:大阪湾国際空港の対岸で開発している「はればれタウン」の開発。
大阪市:大阪市内各所の再開発事業の促進。
近畿電力:和歌山に建設する原発の見返り事業。
山海電鉄:念願の梅田進出。
日鉄清算事業団:累積債務返済のため、所有している土地を高値で売却。
こうした利害関係者たちの調整池して上方高速鉄道が設立される。その中で最も切羽詰まっていたのがNR西日本であった。
大阪駅での新幹線の容量が限界に達しており、さらに新たな原発新幹線として北陸新幹線を急ぎ建設することになっていたからであった。現状の大阪駅の新幹線ホームに北陸新幹線用のホームを建設しなければならなかった。
元々は和歌山方面への原発新幹線で北陸新幹線の乗り入れを賄おうとした。しかし原発新幹線計画が頓挫したことで、計画の練り直しが行われた。そこで在来線ホームの一部を新幹線ホームに転用することとなった。新幹線ホームを従前の2面4線から3面6線にすることで、増大する需要を賄おうとした。
そのためには既存の在来線ホームの一部をどこかに移転させなければならなかった。その移転先が大阪駅から南に駅(現:NR東西線北新地駅)を新設することになった。いわば、この上方高速鉄道は北陸新幹線の準備だった。
「東郷君、そんなに固くならんでも、今日は君の祝いなんだから遠慮せんと口にしなさい」
竹上は緊張で固くなっていた東郷に割烹料理を薦めた。そして東郷に語り掛けた。
「それはそうと、ダイマンの下に駅を造るが本当に大丈夫か」
竹上は並べられた割烹料理を少しずつ口にしながら、東郷に訝しく語り掛けた。それに対して、東郷は淡々と返す。
「建物の下に地下道を造る工事なら、東京で実績がありますので大丈夫です」
このとき、竹上が手掛ける大阪マーケットシティ(以下OMC)の最寄り駅であるNR西日本の京橋駅を再開発事業の一環として地下化することが計画された。地下化することで、踏切をなくしてOMCの車道を整備するためである。
地下化する予定地は従前の地上駅に隣接するダイマン京橋店の地下である。そこに島式ホーム2面4線を建設する。そして地下駅を地上部のダイマンも接続させ、ダイマンへの人流を作り利益を上げるようにする。ダイマンに地下使用料や商業的利益が得られるようにすることで、協力を得ようとした。
既存の建物の真下に地下構造物を建設することは技術的に十分可能だった。建物の真下に構造物を造設する「アンダーピニング工法」は、既に工事実績を重ねていた。実際に東北・上越新幹線の大宮駅以南への延伸は、当工法で建設された。
東郷は既に水面下で大内と接触しており、大内から前向きの返事をもらっていた。それに対して、竹上は不快感を抱くようになった。
「気に食わんな。大内に頭下げるのは癪に障る」
竹上が不愉快そうに言った。それに対して、東郷は淡々と答えた。
「いえ、会長が頭下げるわけではありません。大内さんに頭を下げるのは私です」
このとき竹上は流通王と呼ばれた大内勲と対立関係にあった。1964(昭和39)年総合スーパー「ダイマン」を経営していた大内勲がメーカー小売希望からの値引き許容範囲15%を上回る20%値引きする価格破壊を仕掛けた。
これに竹上電器の竹上が激怒し、竹上電器はダイマンに対しての商品出荷を停止する。ダイマンは商品出荷停止をダイマンは独占禁止法に抵触するとして、裁判所に告訴した。俗に言う「ダイマン竹上戦争」である。
ダイマンはプライベートブランド商品を開発し、1970(昭和45)年「BEBE」という名の13型カラーテレビを当時としては破格の59,800円で販売し人気を博した。当然、この行動は竹上を更に激怒させた。
1975(昭和50)年に竹上は大内と和平会談をする。しかし大内は自身の信念である「良い品を安く消費者に提供する」を貫き、会談は決裂した。それ以来、竹上は大内に対して敵意を持ち続けた。
そんな状況下で自社の再開発事業のためには、当地に構えるダイマンの旗艦店であるダイマン京橋店の真下に駅を建設しなければならないとなった。事業を成功させるため、ダイマンの大内に協力を仰ぎ「借り」を作る。それは竹上にとって、不愉快な話であった。
「それはそうやけど、それでも間接的とはいえワシも頭を下げるのと同じや。やっぱり気に食わん。もう少し何とかならなんか」
竹上は東郷の案に理解を示しながらも、京橋駅地下化の再考を促した。それに対して東郷が答えた。
「そこまでのお話でありましたら、ダイマンの地下に駅を構えない形で再考させて頂きます」
「無理言って悪いな」
竹上は納得した表情を浮かべた。




