正義感
元々、大宮以南の延伸は騒音振動対策として地下に建設されることが検討された。しかし当時の建設技術では当地において地下化は難しく高架建設となった。そして騒音振動をばら撒くということから、建設予定地の周辺住民から反対運動が発生するようになった。
日鉄は住民を懐柔するため、埼京線建設を提示した。これで多少は住民を懐柔することが出来たが、それでも反対運動が完全に鎮まらず用地買収が難航する事態になっていた。
こうした状況を石山が日鉄の代わりに鎮静化させなければならない役目を負わされる。しかし石山が語るには、それほど活動はしていなかったとのことである。
「実際のところ、私はこの件については深く関わってはない。ただ地域の有力議員や警察との調整をしたくらいだった。日鉄による埼京線建設の理解が進みだして、私が活動するころにはもう解決していた」
石山言う通り、目立った活動はしている様子は見当たらない。ただ現象として、大宮以南のルート上で様々な事件が発生していた。ここでは、その現象について記す。
反対運動があった大宮以南では雰囲気や治安が急激に悪化しだした。どこからともなくホームレスが街に集まりようになる。そして段ボールやブルーシートでの野宿が街の至る所に現れるようになった。
また野犬も急に増えてくる。ホームレスが野犬に襲われるのは勿論のこと、一般人が野犬に襲われるという事件も発生するようなった。
更に関東中の暴走族が集結して、大規模な暴走行為が日常化するようになった。最盛期には700台以上の暴走バイクが深夜に街中で暴れた。爆音は連日連夜に響き渡り、とても住める状況でなかった。
街は荒れていった。野犬の群れとその糞、夥しいホームレスとその段ボール住宅、街中の壁は落書き、深夜は爆音の暴走行為と窓ガラスは割られ、挙句の果てには連続放火まで発生する事態となっていた。
こうした状況により、街から少なからずの住民が逃げ出していった。さらにこれらの治安悪化の問題がマスコミにも取り上げられる。そうしたことが相まって、大宮以南のルート上の土地価格が急落するようになった。
この事態に対して、警察は取り締まりをするものの成果を上げていなかった。数が多すぎて追いつけなかったという事情もあったが、それよりも警察側の姿勢にも問題があった。
例えば暴走族の取り締まりは実に手ぬるいものであった。追跡するパトカーは大概が1台だけで追いかけるという程度のものだった。検問などの設置や複数以上のパトカーを連携するといった組織的な取り締まりを行うということはなかった。
こうした中で、積極的な取り締まりを行おうと奮闘する警察官が現れる。警視庁北赤羽署交通課長新田雄二(仮名)である。
彼は暴走族の取り締まりを積極的に行おうとしてはいた。だが署長より人員を割くことを止められ、積極的な取り締まりが出来ずにいた。
そんな手枷足枷を掛けられている状態にあったが、連続放火事件により死者が出るに至り警察も重い腰を上げて取り締まるようになった。
そうした状況で彼は組織的な取り締まりを行い、次々と暴走族を逮捕・補導していった。取り調べにおいて、彼らは一応に
「金を貰ってやっただけ。金を出した奴のことは知らない」
と供述した。
新田はこの金を出している者を捕まえるべきだと主張する。しかし署長は管轄を超える話なるため、取り合わなかった。
そうこうしている内に新田は取り締まりの功績が認められてか、警視に昇進して八丈島警察署の署長となった。
この状況で、ある日を境にして治安が急激に改善するようになった。それは日鉄と大宮以南の住民たちの間で、新幹線建設の合意の覚書が取り交わされた1974(昭和49)年12月3日だった。
この翌々日には暴走族の頭目及び幹部と見られる水死体が荒川岸壁で発見される。その後、野犬は近隣の保健所の助けも借りて一斉に捕獲され殺処分された。またホームレスも一斉に保護され、荒川の護岸に設置された臨時のプレハブ小屋に収容された。
こうして大宮以南のルート沿線の治安は回復した。同時に安くなった地価で日鉄は用地買収を行って、新幹線建設の道筋ができるようなった。
尚、北赤羽署長はこの後に退官して、砂岡が実質オーナーである警備会社の役員に収まった。また当時の警視総監であった堀江孝雄は退官後に砂岡の応援で参議院議員となった。




