目に見えない世界? オカルトなんかくそくらえ!
とりあえず、この連載は今回にて完結といたします。何でかというと、ダラダラ書く習慣っていうのは、あんまり良くないかなあと思えてきたからです。
それにしても、なんだろうなあ。
人生における苦難というのは、なぜ、その人に降りかかるのか。その事に対し意味を持たせるとき、救われる人と、地獄の底に突き落とされる人と、特に何ら影響が無い人と、大きく分けて三通りあるんだと思う。
前回のお話に出てきた「Aさん」は、自らを「マグダラのマリア(罪深き女、娼婦、とも言われている)」になぞらえ、自らの人生を肯定的に捉えるための、拠り所としていた。それは厳密にいえば、真実では無いかもしれない。しかし、Aさんにとっては、必要な信仰であったといえる。
Aさんは教会で育ったとはいえ、もともとは熱心な仏教徒であった。その教団の教えはおそらく、Aさんを救わなかった。なぜなら、苦難を受ける人にたいし「先祖が犯したの罪の報いである」と断じたのだから。そしてその罪を「清める(悪い因縁を減らし、子孫に残さない)」方法は、奉仕活動をする事、とされていた。当然「罪」がどのくらいあるのかは、目で見る事は出来ない。
終わる事の無い無償労働。口癖は「感謝」。
私は思うのだ。
目に見えない「罪」だとか「けがれ」だとか「清める」「次元が高い」「天使が見える」「前世」だとかいうもの……そういう類の概念ないし文章を用いて、苦しんでいる人にそれを信じさせ(その人が望むような形にして)、結果的に「お布施」「信仰心」「奉仕(労働)」「布教(人間関係を利用)」などをさせる行為って、汚いなあと。とくに、友人のように親しくなったあとそういう事を言われたら、強く否定できない人がいるものだ。
話をAさんに戻すと……Aさんには、親代わりの人がいた。今も生きていたら、81歳だろう。私とは、四十歳違いだから。その人、Bさんはずいぶん、Aさんの面倒を見た。いつ何時でも、Aさんが求めれば、話を聞いていた。Aさんが娘を包丁で殺そうとした時も、止めに行ったBさんだったのだ。
そんなBさんがある日、某宗教団体の礼拝堂で真夜中、こんな事を言うのを聞いた。
「Aさんみたいな人、神のみ旨でなければ(信仰の仲間でなければ)付き合わないよ。非常識だし、愛が欲しくてしょうがない人だし、足手まといなのよ」
私はそのBさんの「本音」というものについて、その時は深く考えなかった。なにせ、そんなふうに言われてもおかしくないくらいに、AさんはBさんに依存していたから。
Aさんは誰よりも、お布施をまっさきにした。ぜったいに使ってはいけない、息子の通帳にまで手を出した。その時の、Aさんの表情を今でも思い出す。脂汗で、白光りしていた。
Aさんは、Bさんに認められたかったのだ。だから無理をしたんだろう。
もはや何の話か分からなくなってきているので、もうお開きにしようと思う。
人間そのものに貴賤は無い。聖人も悪人も、皆同じ人間なのだ。誰かが「光り輝いて」見えるとき、それはたんなる錯覚だと、言いたい。もしも誰かを、自らを、光輝いているという人間がいた時、私はその人物を疑う。なぜなら、人間はどこまで落ちても人間だし、どこまで「上がった」としても、最低な行為をする事があるという事を、知っているから。
言葉に意味は無い。
行為に意味はある。
今まさに、目の前にいる人に。
今まさに、一緒に働いている人に。
今まさに、隣にいる人に。
ただの人間として、できる事を、手が届く範囲で。
大それた祈りで驕り高ぶって自己満足にふけるくらいなら
何も言わずにいたほうがいい
罪とは
できない事をできるという事だ
それを偽善といって何が悪い
そんなものはもう
見飽きたというのに
お読みいただき、ありがとうございました。




