第10話 永遠より長い一瞬
茶を淹れる音で、目が覚めた。
千年ぶりに、朝が嬉しかった。
居間の寝椅子で眠っていたらしい。昨夜、ユーリを家に入れてから——何を話したか、よく覚えていない。手を繋いだまま居間まで来て、椅子に座って、いつの間にか眠っていた。千年、眠る必要のない体で、眠った。
台所から音がする。
湯を沸かす音。茶葉の缶を開ける音。茶器を棚から出す音。あの音だ。あの順番だ。
起き上がって、台所の入口に立った。
ユーリが竈の前にいた。鍋の湯が沸き始めている。茶葉を指三本で摘んで、茶器に入れるところだった。
振り向いた。
「おはようございます」
笑った。
いつもと同じ笑い方。何でもないように。昨日、結界の前で泣いた男と同じ人間とは思えないほど、穏やかに。
「……おはよう」
声が出た。自分の声が少し掠れていた。昨夜泣いたせいだろう。千年ぶりに泣いたのだから、喉が慣れていない。
ユーリが茶を二つの器に注いだ。一つを私に差し出す。
受け取った。両手で包む。温かい。
口をつけた。
苦みの奥に、かすかな甘さ。温度がちょうどいい。あの夜——一人で淹れた茶とは、全く違う味がした。
「……この茶は、どうやって淹れる」
言ってから、妙な質問だと思った。千年生きて、毎日飲んでいたものの淹れ方を知らない。
ユーリが目を丸くした。
「え、飲んでたのに知らなかったんですか」
「……お前が淹れていたから、知る必要がなかった」
ユーリが笑った。笑ってから、茶葉の缶を持ち上げた。
「まず茶葉。指三本で、このくらい。器の大きさに合わせて——セレナの器は少し大きいから、気持ち多めに」
「気持ち多め、とは」
「感覚です。何度か淹れればわかります」
「千年生きているが、感覚でわかったことは少ない」
「千年、一人で飲んでいなかったからですよ」
手が止まった。
一人で飲んでいなかった。そうだ。千年、一人だった。茶を飲む相手がいなかった。
「湯を注いでから少し待ちます。蒸らすんです」
ユーリが湯を注ぎながら言った。
「どのくらいだ」
「息を三つ数えるくらい。長すぎると渋くなるし、短いと薄い。ちょうどいいところは——」
「感覚か」
「感覚です」
溜息をついた。千年生きて、茶の淹れ方を人に教わっている。
だが——悪くない。悪くないのだ。こうやって、些細なことを一つずつ覚えていく朝が。
◇
庭に出た。
春だった。結界の中は季節が穏やかに巡る。庭の花が咲いている。白い小さな花。毎年同じ場所に、同じように咲く。
「この花は、毎年同じように咲く」
言った。独り言のつもりだった。
ユーリが隣に立っていた。茶の器を片手に、庭を見ている。
「でも、見る人が隣にいると、違って見えるんじゃないですか」
足が止まった。
違って見える。同じ花なのに。毎年同じ場所に咲く花が、隣に誰かがいるだけで——。
「……アーシャも、似たようなことを言った」
口にして、驚いた。
アーシャの名前を出しても、胸が軋まなかった。あの月夜に語った時とは違う。痛みが消えたのではない。痛みの質が変わったのだ。刃物で切られるような鋭さが、手のひらの上の古い硬貨のような重さに変わっていた。持っていられる重さに。
「アーシャさんって、絵を描いていた方ですよね。どんな絵だったんですか」
「……春の庭を描いていた。毎年、少し違う構図で。『同じ花なのに毎年違う絵になる』と笑っていた」
「素敵な人だったんですね」
「ああ」
微笑んでいた。自分が。口元が緩んでいるのがわかった。
アーシャの記憶は薄れている。顔の輪郭はもうぼやけている。だが最後の春の匂いと、あの言葉だけは残っている。
そして今、同じような言葉を、別の人間が言っている。
アーシャは私を描いた。この人間は、私の隣にいる。
どちらも——ありがたい。
◇
縁側に座った。二人で。
茶はもう飲み終えていた。空の器を膝に置いて、庭を眺めている。風が花を揺らしている。
「セレナ」
「何だ」
「俺、聞きたいことがあるんですけど」
「……何だ」
「ここに、ずっといていいですか」
横を向いた。ユーリがこちらを見ていた。真剣な目。だが怯えてはいない。
「……お前は、昨日そう言ったばかりだろう」
「昨日は告白で、今日は確認です」
呆れた。呆れながら、口元が緩むのを止められなかった。
「……明日も、淹れてくれるか」
「毎日でも」
それだけだった。
結婚でもない。永遠の誓いでもない。明日の茶を淹れる。それだけの約束。
だがそれが——千年生きた私にとって、誰かと交わす最初の約束だった。
壁の正の字を、いつの間にか数えるのをやめていた。数える必要がなくなったのだ。一日の終わりに刻む印がなくても、明日が来ることを知っている。明日の朝、茶を淹れる音で目が覚める。それだけで十分だ。
ユーリが空の器を持って立ち上がった。
「もう一杯、淹れますね。今度は少し薄めにしてみます」
「……好きにしろ」
台所に向かう足音。八歩。
数えている。まだ数えている。だが正の字ではない。あの人間の足音を数えている。毎日、同じ八歩を。
◇
——数十年が過ぎた。
季節は幾度も巡った。春が来て、花が咲いて、夏が過ぎて、秋の葉が落ちて、冬の霜が庭を白くした。それを何十回と繰り返した。
隣の人間の髪は、いつの間にか銀色になっていた。
皺が増え、背が少し縮んだ。指の節が太くなり、膝をかばうように歩くようになった。
しかし茶を淹れる手つきは、初めて私の家で茶を淹れた朝と、少しも変わらなかった。
「今日の茶は、上手く淹れられたと思うんですけど」
縁側。同じ縁側。同じ二つの器。白髪の人間が、少し得意そうに笑っている。皺の中に目が埋もれて、若い頃より目が小さくなった。でも笑い方は同じだ。何十年経っても。
口をつけた。
少し濃い。あの人間の茶は、昔からほんの少しだけ濃い。
「……まあまあだ」
ユーリが笑った。
私も笑った。
庭の花が咲いている。毎年同じ花。でも——隣にこの人間がいると、違って見える。毎年。
千年生きて、初めてわかった。
永遠よりも、この一瞬のほうが長い。
千年の時間は確かに流れた。だがこの人間と過ごした数十年は、千年よりも濃かった。一つ一つの朝が、一杯の茶が、庭に咲く花が、交わした言葉が——千年分の空白より、ずっと重かった。
呪いは解けていない。記憶は薄れていく。強い感情の記憶ほど、時間とともに輪郭がぼやけていく。
だが——最近、記憶が薄れるのが遅くなった気がする。
この人間の笑い方。茶の淹れ方。足音の数。「毎日でも」と言った声。
薄れない。薄れていかない。
なぜかはわからない。呪いが弱まったのか、それとも——。
わからなくていい。
そして私は今日も、あの人間が淹れた茶を飲む。少し濃いが、悪くない。




