姉のつとめ
(……やれやれ。リメイヴァって泳げなかったの?)
湖に落ちて上がってくる気配のない義弟に、リネアルーラは首を傾ける。
少し意外だった。彼はおそらく貴族の出で、そのくらいの訓練は受けていたと思っていたから。
(妾の子とかだったのかなぁ。女性トラブルで逃げ出してきた? 絶対昔から顔良かったもんね、リメイヴァ)
リネアルーラの推測は的を得ていた。限りなく完璧に近い回答だ。
リメイヴァは自分の出自を語ったことはないが、長年かけて身についた立ち振る舞いは簡単に消えるものではない。
文字が読めることだとか、カトラリーの使い方だとか。そんな些細なことにも、生まれの影響は意外と大きいのだ。
だがリネアルーラがそれを見抜いたのは、リメイヴァが義弟になって二日目のこと。その観察眼と洞察力は目を見張るものがある。
本人に言わせれば、「このくらい師匠に鍛えられたリネちゃんの頭脳にかかれば、どーってことないですとも!」と言って渾身のドヤ顔を披露することだろうが。
そんな名探偵リネアルーラは、少し考えてふむと頷く。
「やりすぎちゃったし……助けてあげよっかな」
なんたってリメイヴァは可愛い義弟だ。そんな彼が死にかけているというならば、命を張って助けるというのが姉というもの。
さっきはちょっと冷たくしたけどと思いながら、リネアルーラは靴を脱いで髪をまとめた。
視界を覆い尽くす透明な水の中、リメイヴァはぼうっと考える。
冷たい水が苦手だった。最悪の日々を思い出すから。
女の甘い笑みが嫌いだった。甘ったれた箱入り娘のそういう表情を見ると、嫌悪感で気分が悪くなる。
だが、とリメイヴァは思う。
(アイツは、そんな顔したことない……)
頭の中にある彼女の記憶は、どれも暖かく、嫌悪感など間違っても浮かばないようなものばかりだ。
温かいお湯に浸かる入浴、見たことのない美味しい料理。リメイヴァ、と優しくかけられる明るい笑み。
リメイヴァは時々ふと思う。彼女はどうして、有象無象の中から自分を選んだのだろうか。
もちろん裏オークションに馴染むためだというのは聞いている。だがそれでも、義弟にする必要はなかったはずだ。
ただの気まぐれか、あるいは……――――。
(なにか―――もっと別の、特別な理由があった―――? オレやシルヴェインにすら読めないような、特別な理由が―――)
考え始めて、すぐにやめる。
あの女のことだ。リメイヴァごときに簡単に看破できるようなものではないだろう。ならば考えるだけ無駄というもの。
それに、さっきから段々思考が回らなくなってきた。視界もほとんど見えていない。
この時期でも湖の水は驚くほど冷たい。このままいけば、やがて自分は水死体となって沈むのだろう。
思い残しや後悔なんてない。充実した人生とは言えなかったが、何も得られない人生でもなかった。
自分はもう満足だ。思い残すことなんて、何も――――――
(――――――――――――)
リメイヴァは何を思ったのか、もはやほとんど力の入らない体に叱咤を入れ、僅かに唇を動かす。こぽり、と微量の空気がそこから漏れ出た。
だがそんなことはどうでも良かった。
柔らかな薄い唇が、声もなく四つの音を綴る。
ねえさん、と。
その瞬間、何かが湖に飛び込んできたような音が、聞き取りづらい水越しに聞こえてきた。
まさかと思いながら視線を音の発生方向へ向けると、案の定というかなんというか。
今まさに助けを乞うてしまいかけた相手が、自分目掛けて真っ直ぐに泳いでいた。
リメイヴァはその存在を視認した瞬間、そんな状況でもないのに笑い出したくなってしまった。じんわりと胸が暖かみを帯びる。
(ああ。アイツは、本当に規格外だ……!!)
まさか元公爵令嬢が水泳までできたなんて。いや、彼女を普通の令嬢の物差しで測ったことが誤りだったか。
リメイヴァは知っている。彼女は実は欲張りで、叶えたいと思ったことは持てる力の全てを持ってして叶える女なのだと。
そして、一度彼女に何かを決意させてしまったら、外野が何を言っても無駄なのだと。
素早い動きでリメイヴァの元へ辿り着いたリネアルーラは、ゆっくりと彼の体を抱き留める。
そして優しく彼の顔を自分の方へ向けさせると、ふっと暖かな微笑みを零す。
それにリメイヴァが瞠目した次の瞬間、リネアルーラは己の唇をリメイヴァのそれに押し付けた。
(――――!?!!?!)
声も出せず目を白黒させるリメイヴァの口内に、口移しで空気が移される。
リメイヴァは混乱しながらも、ほとんど無意識にそれを吸い込んだ。新鮮な酸素に、脳が安堵の声を上げる。
キュウ、と強く締め付けられる心臓。もはや痛いほどだ。その感覚が余計に彼を困惑させる。
そうしている内に、マイペースな義姉は義弟の腕を引き、ゆっくりと水面へ向かって上昇していった。
☆★☆★☆★☆★
なんとか陸上に帰還した二人は、ゼェハァと肩で息をしながら空気を貪っていた。
過去には水泳選手日本代表を務めていたリネアルーラだが、さすがに私服で、さらにリメイヴァに空気を分け与えたため、さすがに疲弊したらしい。
「い……やぁ……疲れたね……。しばらく潜水はしたくない」
「…………いや……もう二度と、ごめんだ……」
二人はぐったりと身を投げ出していたが、しばらく休むと、ゆっくりと体を起こした。
縁に座り込んだリネアルーラは「ごめんね」と眉を下げて笑いかけた。
「言いすぎたよね、さっきは。調子乗ってたや」
「いや……あれは、オレが悪くて」
「いや違う。あれは私が悪くて、リメイヴァが正しいんだ」
きっぱりとした口調で断言して、らしくない苦笑を零した。
リネアルーラの脳裏にあったのは、先程のやりとりの一幕。
“どうせオレを連れて来たのは、ただの気紛れだろ? お前はいつもそうだからな。思わせぶりなことを言っておいて、結局はその場の気分なんだ”
「その通りだよ。全部正解。リメイヴァをここに連れてきたのも、あの時言った言葉も、全部その場の気分。意味なんてない」
静かに淡々と言葉を紡ぐ義姉に、リメイヴァが微かに目を見開く。いつもの騒がしくて明るい態度とは正反対な様子からは想像もできない、悄然とした雰囲気のせいだろう。
しかし事実だった。リメイヴァを責め立て、揺さぶり、試すように放った言葉の数々は、本当に全てただの戯れ。
戯れにしてはやりすぎだったが。
「だからごめんね。今回の事故は、私の落ち度だよ」
そうしてリネアルーラは困ったように笑ってもう一度謝罪した。
それに何も言えずに黙っていると、ふと何か思い出したように懐を漁り出す。
そして取り出したのは、何かを包んだ紙の塊だ。防水仕様らしく、紙は水分を吸収することなく弾いている。
リメイヴァが日の光を反射するそれをぽけっと眺めていると、リネアルーラは包みを開く。
現れたのは、金と碧を基調にしたピアスだ。どこか清廉なデザインのそれは、彼女の華奢な手の中でシャランと上品な音を奏でる。
明らかにオーダーメイドであろう一品を、リネアルーラは笑顔でリメイヴァに差し出した。
「プレゼント。色々迷惑かけちゃったからね」
驚きに目を見張るリメイヴァ。
その反応に誤解したのか、リネアルーラが焦り出す。
「あれ、もしかしてデザインが気に入らなかった!?」
「あ、いや違っ……っていうかこれいくらしたんだ!?」
「細かいことは気にしなくていいヨ!」
輝く笑顔でグッとサムズアップするリネアルーラ。元公爵令嬢なだけあって金銭感覚狂ってんな、とリメイヴァは遠い目をして思った。
ちなみにだが、リネアルーラは過去の人生を通して「これはバカ高い」「あれはちょっと高い」というような普通の感覚はちゃんと身につけている。だがしかし、愛しい義弟のためならいくらでも注ぎ込めるのだ。
閑話休題。話を戻そう。
リメイヴァは差し出されたピアスを、しかし受け取ることなくウロウロと視線を彷徨わせ、ぽつりと呟く。
「……なあ、オレ変なんだ」
「? リメイヴァはカッコ可愛いよ?」
「そうじゃなくて……よくわからないけど、何か変なんだ」
リメイヴァは語った。日々感じていた気恥ずかしさと度々起こる不整脈。湖の底で感じた胸の暖かさ。
さすがに彼はここまで来ると、自分の中の感情に見当がつき始めていた。
「なぁ、これってやっぱりそうなのか? オレ、オレは、お前のことが」
「それは“家族愛”だね、リメイヴァ」
リネアルーラは優しげな笑顔のまま、リメイヴァの言葉を遮るように断言してみせた。
リメイヴァはその笑顔に首を傾げる。
「家族愛……?」
「そ。リメイヴァって多分だけど、家族とかそれに似た存在っていなかったでしょ。いたとしてもまともなのがいなかったり」
大正解だ。思わず目を瞠る。
「だから初めてで戸惑ってるんだね。それは家族愛、あるいは姉弟愛だよ」
「姉弟、愛……」
……本当に、そうなのだろうか。そんな疑問が胸をよぎる。
だがリネアルーラの表情は、とても嘘をついているとは思えなかった。
「そう……なのか? これは、姉弟愛なのか?」
「そうだよ。ねぇリメイヴァ、そろそろ私を姉とは認めてくれない? それとも、こんな姉じゃ頼りない?」
「……っ」
どこか透き通った笑みで、ピアスを乗せた手を差し伸べるリネアルーラに、リメイヴァは言葉に詰まってしまった。
頼りあるかどうかで言ったら、まず間違いなくリネアルーラは頼りになる。なりすぎるくらいには頼りになる。
だがこの手を取ってしまったら、何か、自分の中の感情が潰されてしまうような……そんな気がするのだ。
酷い話だ、とリメイヴァは思う。
命をかけて助けてもらったのに、恩人を信じきれないなんて。
どうしたらいいのだろう。信じられないからと、この手を突き放せと本能が叫んでいる。
(でも、それでも、オレは……っ!!)
それでもこの手を取りたいと、リメイヴァは奥歯を噛み締めて本能を抑え込んだ。
そうしてまさに決死の表情で、その華奢な手に自分の手を乗せた。
その手の温もりにほっと頬を緩め、柔らかな表情でリネアルーラを見上げる。
「ああ……これからよろしく、姉さん」
「〜〜〜〜〜ッッ!!」
リネアルーラは感激したように身体をわななかせると、ガバッと勢いよくリメイヴァに抱きついた。
ぎゅうぎゅうと力強く抱きしめてくる義姉――――姉に、リメイヴァは顔を見られないようにしながら、こっそりと唇を噛む。
(……これで、良かったんだ)
これでようやく、本当の意味で姉弟になれる。リネアルーラは嬉しそうで、リメイヴァもようやく本心が言えてホクホクだ。
ホクホク、なのだが――――
(……なにか、見落としている気がする。なんだ――――?)
どうしても違和感が拭えない。気づかなければならない何かがわからない。
無言で考え込むリメイヴァの顔を、不思議そうな表情のリネアルーラが覗き込んだ。
「どーしたの? リメイヴァ、お腹痛い?」
「……いや、なんでもない。なんでもないんだ」
――――今は、彼女との時間を楽しんでいよう。
違和感については、また考えればいい。それを考えるのは今じゃなくていい。
そう思考を放棄したリメイヴァは、自分もギュッと姉を抱きしめ返すのだった。
―――そして聡いリネアルーラは、そんな内心私知っていた。
(リメイヴァ、なーんか変な感じーみたいなのは感じてるけど、具体的にコレだ! っていうのはわかってないみたいかな?)
ぐりぐりと甘えるように押し付けられる頭に、リネアルーラはデレっと緩んだ頬をすり寄せる。
(考えてたけど、お姉ちゃんが大好きすぎてやめちゃったのかな? あはっ、かーわいー)
リメイヴァが感じた違和感。それは彼が絶対に掴まなければならないもの。
リメイヴァが足を踏み外したのは、湖の縁が浮いたゴミで隠れていたからだが、果たしてそれは偶然なのか?
大切に仕舞っていたとはいえ、わざわざピアスを防水性の紙に包むか?
その上偶然にも、湖に落ちた。―――こんな都合のいい展開、起こる確率は一体どれくらいだ?
なによりも、彼が湖に近づいたのは、―――リネアルーラに誘導されたからではなかったか。
(桜は散る、梅は溢れる)
リネアルーラの白い指が、スリと弟の耳朶を撫でる。その感覚がくすぐったくて、リメイヴァはふるりと身を捩った。
かわいいなぁ、とリネアルーラは小さく呟く。
(椿は落ちる。―――リメイヴァが気づくのは、きっと来世だなあ。リメイヴァって変なところで抜けてるから、リネちゃんが守ってあげないとねぇ)
ひゅー、ぺしゃんっ。
どこかでなにかが落ちて、潰れる音がした。




