守りたいもの-8
「へっ?!」
レインのことは大好きだけど、まだそこまでの心の準備はできていない。
どう返事をしようか悩んでいると、彼は何も言わず、優しくわたしの頭を撫でた。
「ごめん、困らせたね」
「えっ」
眉を下げて謝る彼に向かって、慌てて首を振る。
「ち、違うの! レインとキスするのが、嫌なわけじゃなくて! ただ、心の準備がまだできてなくて……」
必死にそう伝えると、レインは、くすりと笑った。
「分かった。待つよ」
「ありがとう。……あと、ちゃんと、わたしたちのことが認められて、堂々とレインが恋人だって言えるようになる日……その時まで、大事に取っておきたいなって思ってるんだけど……だめ?」
わたしだって、もっと彼に触れたいと思う。だけど、今はまだ、わたしたちの関係は秘密だから。
わたしの言葉に、レインは少しだけ目を丸くした後、すぐに「駄目じゃない」と言ってくれた。その様子に、ほっと胸を撫でおろす。
「でも、本音を言うとちょっと心配なんだよね」
「心配?」
「アナスタシアは誰とでもすぐキスしようとするからさあ。誰かに奪われないか、それだけが心配」
誰とでもすぐキスしようとするなんて、ひどい言われようだ。だけど、実際、マルガレーテさんのことがあったので、強く否定はできない。
「……しないわよ。誰とでも、なんて」
「本当に?」
「うん。……だって、わたしがキスしたいと思うのは、レインだけだもの」
マルガレーテさんの時だって、本当は心の中で迷っていた。だから、未遂で終わって、すごくホッとしたのだ。
だけど、もしあの時、レインが相手だったとしたら……わたしはきっと迷わず受け入れていたと思う。
そう正直に言えば、レインは大きなため息をついた。
「……アナスタシアって、ずるいよね」
低く呟くと、レインはわたしの肩に額を押し付けてくる。
「あーー、もう……可愛すぎてどうにかなりそうなんだけど」
ストレートな言葉と、余裕たっぷりな彼らしくない態度に、思わず頬が緩みそうになる。
それを必死に堪えて、わたしは彼の髪をそっと撫でた。
「どうにかなっちゃうのは、困るわね」
「……このままだと態度にもすぐ出るけど。それで、バレたら責任とってよ」
「えぇ……そんなこと言われても……」
普段はあんなに猫を被るのが上手なのに。
ぐりぐりと押しつけられる頭に、やれやれと思いながらも、わたしは撫でる手を止めなかった。
「じゃあ、その時は二人で逃げちゃいましょう」
冗談めかして、でも、わたしは本気だった。
「こっそり屋敷を飛び出して、私たちのこと誰も知らない場所で生活するの。大変なことも沢山あると思うけど……」
お金のこと。住む場所。これからの生活。
考えることは山ほどあるし、簡単な話ではないことは分かっている。
それでも──わたしは、レインと一緒にいたい。
「レインと一緒なら、きっと幸せだもの」
そこまで言って、ようやく気づいた。
レインが、一言も発していないことに。
(……呆れられた? これだからお嬢様は、って)
出会った頃、彼はよくそんなことを口にしていた。
「……アナスタシアさあ、それ意味わかってる?」
顔を上げたレインは、ひどく真剣な、それでいて少し怖い顔をしていた。
だけど、この体勢では逃げ場もない。
「責任とってレインを幸せにするってことだったんだけど、ダメだった?」
「……ダメなわけ、ないだろ」
低く、抑えた声。
レインは、わたしの額に自分の額を押しつけたまま、離れようとしない。
わずかに熱を帯びた赤い瞳が、逃がさないと言うみたいに、じっとわたしを見つめていた。
「レ、イン……?」
「覚悟しといてよ。俺は君を簡単には手放さないから」
そのまま唇が、触れそうになって──思わず目をぎゅっと瞑る。
けれど、感じたのは、頬に触れる柔らかな感触だった。
「今は、まだこれだけ」
そう囁くと、レインはゆっくりと距離を取った。さっきまで触れていた熱が離れた瞬間、胸の奥に、名残惜しいような感覚が残る。
すると、そんなわたしの視線に気づいたのか、レインが、にやりと笑った。
「……物足りなかった?」
「なっ──! そ、そんなことない! 変なこと言わないで!」
図星を突かれて、わたしは思わずレインの胸をぽかぽかと叩いた。
本当に軽くだけのつもりだったのに、彼は困ったように笑って、その手をやんわりと掴む。
「はいはい。いい子だから暴れないで」
「暴れてない!」
そう言い返しながらも、掴まれたままの手から逃げられない。
「……手、冷たい」
口を尖らせながらそう言うと、レインは困ったように笑った。
「アナスタシアが温めてよ」
そのまま、包み込むみたいに両手で握って、温める。すると、指の付け根に、かすかな違和感があった。
「……あれ?」
思わず、手を止める。
「どうした?」
「……この傷、」
よく見ないと分からないほど薄いけれど、確かに残っている。
「ほとんど消えてるけど……」
「……まだ、気づくんだ」
そう言うと、レインは視線を逸らした。
「大したことない。もう治ってる」
「でも……」
星夜祭の夜。
わたしが襲われて、彼はお母様より罰を受けた。あの日のことを思い出すと、胸がきゅっと締め付けられる。
「……ねえ、アナスタシア」
「なに?」
「今でも、仲良くしたいって思ってる?」
誰と、なんて聞かなくても分かる。わたしの心の中を、レインは全部知っているかのようだった。
「思ってるよ」
たとえ、お母様が願う家族の幸せの中に、わたしが含まれていないとしても──たとえ、殺したいほど憎まれていたとしても。
(そのために、わたしは知らなきゃいけない。どうしてお母様がアナスタシアを拒むのか、二人の間に何があったのかを。……アナスタシアが、彼女に何をしたのかを)
胸の奥の不安を隠すように、わたしはレインに抱きついたのだった。




