星降る夜に願いを-3
それと同時に、背中にふわりと温もりを感じた。
柔らかな花の香りが鼻先をかすめ、耳元で聞き覚えのある声が囁く。
「久しぶりだね、アナスタシアちゃん」
この花の香りと声は、もしかして。
顔をなんとか後ろに向けて、振り返った視線の先には微笑む彼女の顔があった。
「マルガレーテさんっ?!」
「ふふっ、また会えて嬉しいよ」
そう言うと、彼女は片目をつむって、茶目っ気たっぷりに笑った。かわいい、かわいすぎる。
すさまじい破壊力をもつその行動に、かすかにめまいを覚えながらも、わたしは何とか返事をした。
「お久しぶりです。マルガレーテさんは、どうしてここに……?」
「仕事で近くに来ていたんだが、アナスタシアちゃんの姿を見かけたからね、つい」
「な、なるほど……?」
なにが「つい」なのかは分からないが、あえて触れないでおこう。
とにかく今は彼女と距離を取らなくては心臓がもたない。そう思うが、ぎゅっと抱きしめられていて、それは叶わなかった。
「あ、あのー、離してもらえますか?」
「おや、つれないねぇ。あんなに熱烈な口付けをしようとした仲だというのに」
「変な言い方しないでください!」
なんてことを言い出すんだ、この人は。
揶揄うような態度のマルガレーテさんに呆れながらも、彼女の腕から抜け出そうとしていれば、何故か先ほどよりも強く力が込められる。
「こらこら、暴れない」
「いや、本気でそろそろ離してもらって……って、ちょっと! どこ触ってるんですか?!」
ジタバタともがくわたしの耳元で、くすくすと笑う彼女の声がした。
そうして、マルガレーテさんとじゃれ合っていたとき。
ふと、隣から冷たい空気を感じた。
何かと思い視線をそちらへと動かせば、エミリアが無表情でわたしたちを見つめていた。
「あっ、」
まずい。すっかりエミリアのことを忘れていた。
わたしは一旦、マルガレーテさんの腕から抜け出すのを諦めて、エミリアにマルガレーテさんを紹介する。
「あのね、エミリア。この方はマルガレーテさん、宮廷魔術師なの」
マルガレーテさんに抱きしめられたままそう言えば、エミリアは一瞬、鋭い視線を向けたが、すぐにいつものようにかわいらしい笑みを浮かべた。
「初めまして。エミリア・セラフィーナと申します」
「おや、かわいらしい子だ。アナスタシアちゃんの友人かい? 仲良しだね、二人で買い物だなんて」
「ええ。私達、とっても仲良しなんです」
何だかいま「とっても」の部分がやけに強調されたような。マルガレーテさんの腕の中、二人のやりとりをぼんやりと眺める。
やがて、マルガレーテさんがくすっと笑った。
「なるほど。……本当、アナスタシアちゃんは罪な女の子だね」
「えっ」
「前にも言ったように、くれぐれも気をつけたまえよ」
突然、話を振られたかと思えば、頭をポンポンと撫でられる。さらには、やれやれと言わんばかりの表情で、ため息までつかれてしまった。
そして、ようやくマルガレーテさんの腕から解放されると、彼女は名残惜しそうに口を開いた。
「さてと、そろそろ仕事に戻るよ」
「あ、はい。お気をつけて」
この人、まだ仕事中だったのか。
「また会おうね、二人とも」
そう言うと、次の瞬間、マルガレーテさんはあっという間に姿を消した。いつも思うけど、これは何の魔法を使っているんだろう。今度、聞いてみるか。
そんなことを考えながらちらりとエミリアの方を見れば、わたしの視線に気づいた彼女が、にっこりと笑う。
「私たちもそろそろ帰りましょうか」
「そ、そうね」
結局、エミリアにわたしの気持ちを伝えることはできなかった。だけど、この流れでいうのも何だか変な気がして。
モヤモヤする気持ちのまま、私たちは帰路についた。
◇◇◇◇
「疲れたぁ……」
部屋のソファにもたれながら、わたしは大きなため息をついた。結局、お守りの材料は買えていないし、エミリアにわたしの気持ちを話せてもいない。
問題は山積みなままだ。
「はい、お茶どうぞ」
「あ、ありがとう」
「どーいたしまして」
そう言って、突然のように隣に座るレイン。
いつものことだから別にいいのだけど、たまにはこう遠慮するとかないのだろうか。
そんなことを考えながら、じっと彼を見つめていれば。突如、すん、と匂いを嗅ぐように顔を近づけられ、思わずぴたりと動きが止まる。
「な、に……?」
「花の匂いがする。しかもこの匂い、この辺りではなかなか咲いてないやつだろ。今日は授業が終わった後は、街に買い物に行っただけじゃないの? いったいどこまで行ってたわけ?」
そんなことまで分かるとは……驚きを通り越して、もはや恐怖すら感じる。早口で話す彼に目をぱちぱちと瞬きさせながらも、わたしは今日あったことを説明した。
「エミリアと街に買い物に行った時に、たまたまマルガレーテさんに会ったの。あの人からはいつも花の匂いがするから、多分それでだと思う」
おそらく、マルガレーテさんに抱きしめられた時に匂いが移ったのだろう。しかし、それを正直に話すと色々と面倒なことになりそうなので、黙っておく。
「へぇ」
「なによ、その目は」
「別に? ただ、会っただけで、こんなに匂いが移るものかって思っただけ」
その言葉に、わたしの顔が一気に強張る。それをレインが見逃さないはずがない。
目の前の赤い瞳がゆっくりと細まった。
「また、俺に言えないようなことしてたの? そのマルガレーテさんと」
その言葉と同時に、じりじりと距離を詰められる。またって、なんだ。また、って。一回もしたことない。
そう反論したいのに、うまく言葉が出てこない。なんとか胸の前でバッテンのポーズを作りながら、わたしは弱々しく口を開いた。
「こ、こういうの、よくないと思います……」
「こういうの?」
「この前の膝枕とか、その前のアレも……とにかく! 最近のレインは距離が近すぎるの!」
そう叫んだわたしに、レインは首を傾げた。
「アナスタシアは、よく大好きなお兄様に抱きついてるよね? 別にそれと変わらないでしょ」
「さ、最近は抱き着いたりしてないし、それにお兄様は家族だもん。……いやまあ、レインが家族じゃないってわけじゃないけど……!」
「じゃあ、何で俺はダメなわけ」
「そ、れは……」
意識してドキドキしちゃうから、なんて言えるわけがない。「えぇ」とか「うぅ」とか情けない声しかでない。それでも必死になって叫んだ。
「……困るから! レインに近づかれると困るの!」
「どうして?」
「どうしてって……」
これ以上、聞かないでほしい。そう思うのに、彼は一歩も引かない。意地の悪い笑みを浮かべながら、わたしの答えを待っている。
これは確実にわたしを揶揄って楽しんでいる。
そう思うと何だかムッとしてきて、わたしは、彼の肩を勢いよく押した。
しかし、体幹のいい彼のことだ。わたしがちょっと押しただけではバランスを全く崩さない。
そのことに更に苛立ちを覚えながらも、わたしはぐっと力を込めて彼の肩を押す。すると、目の前の顔が分かりやすく歪んだ。
「……なに?」
「もう! いいからちょっと、後ろに倒れて!」
「は?」
訳がわからないといった表情を浮かべるレインだったが、わたしの言う通り、そのまま身体を軽く後ろに倒した。
ソファの肘掛けに身を預けた彼に、わたしは顔を近づける。すると、一瞬。ほんの一瞬だけだったが、彼の赤い瞳が驚いたように揺れた。
「ね? レインも急にこうやってされたら困るでしょ! それと一緒よ!」
「別に困らないけど」
「なっ」
まさか、困らないと言われるとは思わなかった。
予想外の返答に口をはくはくとさせていれば、レインはふっと笑った。
そして、彼の肩に置いていたわたしの手に、そっとレインの手が重なり、そのまま彼は身体をぐっと起こした。
突然のことに後ろに身を引こうとすれば、逃がさないとばかりに腰に手を添えられる。
「俺はアナスタシアのものだから、別に何されても困らない。君の好きにしていい」
その言葉に一気に顔が赤くなるのが、わかった。
レインはたまにこういうことをいう。奴隷として売られた経験から、主従関係を重んじているのかもしれないけど、心臓に悪いからやめてほしい。
「レインはレインのものでしょ……」
絞り出した声は、情けないくらいに震えていた。
わたしの従者だし、隷属の誓約だってあるけど、わたしのものじゃない。
そう伝えるが、目の前の男は楽しそうに笑うだけだ。
「何で笑ってるの!」
「いや、茹で蛸みたいだなって」
「また、そうやってばかにして……」
「馬鹿にしてない。かわいいって思ってる」
その言葉がじわじわと胸に染み込んで、戸惑いと高揚が一気に押し寄せる。顔だけでなく、体の奥まで熱くなるのが自分でも分かった。
頭の中がふわふわして、まるでお酒に酔った時のようだ。そんななか、ふと、ある考えがよぎった。
レインがこういう発言や態度をするのは、レインが奴隷だった過去が影響しているとして。
つまりそれって、今までにレインを買っていた相手にも同じことを……?
そこからのわたしの妄想は止まらなかった。邪な考えが頭の中をすごい勢いで駆け巡っていれば、ふいにわたしの頬が掴まれる。
「いひゃい」
「何か変なこと考えてるでしょ」
そう言って、鋭くなった赤い瞳がこちらを見つめてくる。どうして分かるのだろう。そんなにわたしって分かりやすいのかな。
「……考えてない、よ」
いまひとつ信じていない様子のレインに向かって、誤魔化すように笑みを浮かべるのだった。




