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「凛風! 凛風、しっかりしろ!」
憂炎の声が聞こえる。
矢の放たれた方角から聞こえる慌ただしい足音。あそこには護衛の武官が立っているはずなのに。
「憂炎、早く追いかけないと……おまえ、また狙われる――――」
「主!」
その時、白龍が血相を変えて戻って来た。
「護衛三人のうち二人が切り捨てられています。もう一人の行方は見えません」
「追え! 絶対に逃がすな!」
「御意」
白龍は一瞬で状況を理解したのだろう。要点だけ説明し、あっという間に居なくなった。
身体中がビリビリ痺れて言うことを利かない。血はどれぐらい流れているのだろう。確認したくても、叶わない。
「凛風! しっかりしろ」
憂炎は言いながらわたしの洋服をビリビリ破く。毒抜きが必要だと見抜いたのだろう。それにしたって、あまりにも乱暴だ。『華凛』はこれでも良いとこの令嬢なのに――――。
(……あれ?)
「凛風!」
「憂炎……おまえ――――――」
今のわたしは『華凛』のはずだ。だけど、憂炎はさっきからずっと、わたしのことを『凛風』って呼んでいる。
だって、そんな。まさか――――。
「気づいて、いたのか? わたしが『凛風』だって」
「当たり前だろう! 俺がどれだけおまえを見てきたと思ってる!」
涙がポロポロと零れ落ちる。
全然気が付かなかった。憂炎はずっと『凛風』を――――わたしを見てくれていたんだ。
憂炎が矢の刺さっている患部を晒す。空気に触れ、傷口がドクンドクンと大きく疼いた。
「凛風――――――これ、持っててくれたんだな」
「……え?」
憂炎はそう言って慎重に、わたしから矢を引き抜いた。その途端シャラッと小さな音が鳴って、憂炎が言わんとしたいことが分かる。
「ああ……どうしても、手放せなかったんだ」
憂炎から貰ったブレスレット。
後宮を去ったあの日以降も、毎日、肌身離さず持ち歩いていた。憂炎に見られないよう、胸元にしまい込んで。
見れば、憂炎が引き抜いた矢の周りを、ブレスレットが囲んでいた。石の間に入り込んだため、矢は勢いを殺されたらしい。傷は思ったよりも浅いようだった。
「うっ……」
胸元に憂炎の唇を感じる。血を思い切り吸い出されて、それから吐き出されて。何度かそれを繰り返されている内に、少しだけ身体が楽になった。
傷口は疼くし、熱いし、血が流れている感覚はあるけれど、多分、大丈夫。
わたしは憂炎の膝に頭を預け、ゆっくりと深呼吸をした。今にも泣き出しそうな憂炎の顔が見えて、小さく笑う。
「なぁ、いつから気づいてたんだ?」
憂炎はわたしの止血をしながら、小さくため息を吐く。
「そんなの一番初めからに決まっている。凛風の代わりに華凛が入内してきたときは、本当に憤死するかと思った」
「……そんな様子、おくびにも出さなかったくせに」
その瞬間、色んなことが腑に落ちた。
憂炎は『凛風』がわたしじゃないって気づいて、だから後宮にも通わなくって。
だから『華凛』――――わたしを自分の元に呼び寄せた。わたしが『凛風』に戻るように、そう仕向けたんだ。
「格好悪いだろ。好きな女にまんまと逃げられて。真っ正直に『入れ替わってるだろ』って指摘するなんて、俺にはとても出来なかった」
「そうだな……おまえ、カッコつけだもんな」
クスクス笑いながら、涙が零れる。あーーあ、最初からバレてたなんて思わなかった。本当バカみたい。
「…………後宮に連れ戻したら、さすがのおまえも観念すると思ってた。諦めて、俺の妃として生きてくれるって。だから、園遊会の夜、後宮で華凛の姿を見たときは、本気で落ち込んだよ」
「あぁ……そうか。だから翌朝、あんなにネチネチ怒ってたのか」
憂炎はわたしの手をギュッと握る。温かくて大きな手のひら。こんな風に手を繋ぐのは、一体どれぐらいぶりだろう。ささくれだった心が満たされていく心地がした。
「だけど俺は、あの時になってようやく気づいたんだ。無理やりおまえを『凛風』に戻したところで意味が無いって。おまえ自身が『戻りたい』って思わないと、きっと何度でも同じことを繰り返してしまう」
「うん、そうだね。本当、その通りだと思う」
もしも二度目の入れ替わりの後、すぐに後宮に連れ戻されていたとしたら――――わたしはきっと、また逃げ出していた。
何度でも、何度でも、憂炎の元からいなくなったと思う。
「だから俺は、凛風が『自分から戻りたい』って思ってくれるように、気持ちを切り替えた。正直、俺の気持ちがおまえに全く伝わっていなかったってのは想定外だったけど」
「……だって! だって、おまえとわたしってそんな感じじゃなかったし」
「おまえはそうでも、俺は違う。俺はずっと凛風のことが好きだったよ。ずっとずっと、凛風だけを見ていた」
憂炎の瞳が熱くて優しい。
あぁ、そうか。
憂炎はずっと、『華凛』の中にいる『わたし』を見ていたんだ。憂炎が口にした『凛風』への想いも、さっきの――――華凛への口付けも――――全部全部わたしだけのものだった。
そう思うと、涙が溢れて止まらない。
「……ねぇ、戻っても良い?」
憂炎が唇でわたしの涙を拭ってくれる。愛し気に、慈しむように触れられた唇が、あまりにも優しくて、欲しくて堪らなくなる。
「わたし……憂炎の妃に、戻っても良い?」
涙でぐちゃぐちゃで、前なんてまともに見えない。だけど、憂炎の紅い瞳だけはやけにハッキリ見える。
「言っただろう、俺の妃は凛風だけだって。――――早く戻って来い、バカ」
そう言って憂炎は幸せそうに――――とても幸せそうに笑った。
それがあまりにも嬉しくて。幸せで。
憂炎の口付けを受け入れながら、涙がずっと、止まらなかった。




