第1話 深層六十階、ご遺族の指輪を一つ
「ご遺族のご依頼ですので、少し失礼しますね」
俺は会釈をして、ドラゴンの鼻先を通り過ぎた。
体長はたぶん三十メートル。鱗は灰色で、目は溶けた鉄みたいに赤い。鼻息ひとつで、作業着の裾がばたばたと鳴った。
ドラゴンは動かなかった。
ちゃんと挨拶をすれば、たいていの相手は分かってくれる。この仕事を八年やってきて、俺が覚えたことの一つだ。
頭の横で、浮遊カメラが小さく唸っている。
手首の端末に、配信画面の隅が映っていた。
同時接続数、三。
一人は依頼人の娘さん。一人はその母親。
残りの一人は、知らない誰かだった。
◇
話は三日前にさかのぼる。
「前の業者さんは、偽物を持ってきたんです」
八王子の団地の一室で、佐伯美羽さんは膝の上で拳を握った。
高校二年生。制服のリボンが少し曲がっていた。
「お父さんの指輪だって。でもサイズも違うし、刻印もなかった。お金だけ取られて、電話はもうつながりません」
隣で母親の佐伯和美さんが、申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません、灰島さん。この子、それからずっと……」
「当然だと思います」
俺は名刺を座卓に置いた。
灰島遺品整理事務所 代表 灰島恭一。
四十二歳。肩書きは「ダンジョン遺品整理士」。
十年前、世界中にダンジョンが口を開けた。
それから、帰らなかった探索者は国内だけで一万人を超える。
遺体はたいてい残らない。ダンジョンが呑み込んでしまうからだ。
だが、持ち物は残る。指輪、時計、手帳、子どもの描いた絵のお守り。
それを探して持ち帰り、ご遺族に届ける。
ついでに相続の手続きも少し手伝う。それが俺の仕事だった。
「お父様の佐伯透さんが亡くなったのは、五年前。三十二階でしたね」
「はい。協会の人はそう言ってました」
「でしたら、指輪は今、六十階あたりにあるはずです」
美羽さんが顔を上げた。
「……ろくじゅう?」
「ダンジョンに残された物は、少しずつ下へ沈むんです。浅い階なら、一年でおよそ五階から十階。古い物ほど深くなります」
俺にとっては当たり前の話だった。
なのに美羽さんの目は、余計に疑わしそうになった。
「それ、行ってないのに『行った』って言える深さですよね」
鋭い子だ、と思った。
前の業者は、まさにその手を使ったのだろう。
「では、こうしましょう」
俺は鞄から、協会の売店で借りた浮遊カメラを出した。
「作業の様子を配信します。美羽さんは、最初から最後まで見ていてください。私が本当に現地へ行ったかどうか、ご自分の目で確かめていただければ」
美羽さんは長いあいだ黙っていた。
それから、小さくうなずいた。
◇
その夜、俺は八王子ゲートの業者用通用口から潜った。
探索者の皆さんが使う正面ゲートは、いつも行列ができている。
業者用は空いていて、守衛さんに許可証を見せるだけでいい。記録されるのは入った時刻と出た時刻だけだ。
上層は、早足で抜ける。
中層は、遺品がないか気にかけながら歩く。
四十階を過ぎたあたりから、すれ違う探索者がいなくなる。
皆さん深いところでは忙しいのだろう、と俺は思っている。
なにしろ、遺品はいつも深いところにあるのだから。
そして今、六十階だ。
この階は、壁も床も灰色の結晶でできている。光源はないのに、足元だけがぼんやりと明るい。
空気が重く、甘い。慣れないうちは頭痛がしたものだ。
《コメント欄》
ミウ:ほんとにダンジョンなの?
ミウ:画面の右上、60Fって出てる
佐伯和美:灰島さん、どうか無理はなさらないでください
通りすがり:待って
通りすがり:ここ、どこ?
通りすがり:階層表示60ってバグ?
俺はカメラに向かって頭を下げた。
「ご覧いただきありがとうございます。灰島遺品整理事務所です。ただいま六十階、これから佐伯透さんの指輪を探します」
通りすがりさんは、たぶん協会の配信サイトを適当に覗いた人だろう。
夜中に退屈な作業配信を見てくれるなんて、ありがたい。
俺は目を閉じて、意識を細くした。
スキル《失せ物探し》。
十年前、協会で適性検査を受けたとき、測定器が出したランクは「F」。家の鍵やリモコンを見つけるくらいしか役に立たない、と係の人に笑われた。
けれど、遺品を探すにはこれで十分だった。
持ち主を想う誰かの気持ちを、頭に思い浮かべる。
和美さんの「どうか」。美羽さんの、握りしめた拳。
すると、胸の奥から細い糸が一本、ほどけていく感覚がある。
「……ああ、あちらですね」
糸は、まっすぐ伸びていた。
さっき会釈したドラゴンの、尻尾の下へ。
《コメント欄》
通りすがり:え
通りすがり:まって、そっち
通りすがり:それ、灰燼竜じゃない?
ミウ:はいじんりゅう?
通りすがり:深層の階層主。誰も倒したことない
通りすがり:逃げて
「ご心配ありがとうございます」
俺はコメントに礼を言って、ドラゴンのほうへ戻った。
ドラゴンという生き物は、光る物を集めて寝床に敷く習性がある。
だから、深層の遺品はドラゴンの下にあることが多い。困った習性だが、こちらとしては探す手間が省けて助かる。
「何度もすみません。その下に、ご遺族の大切な物がありまして」
赤い目が、ゆっくりと俺を見下ろした。
喉の奥で、溶鉱炉みたいな音が鳴る。
あ、これは怒っているな。
次の瞬間、視界が白く染まった。
炎だ。熱というより、光の壁だった。
俺は腰のポーチから、銀色のシートを一枚抜いて広げた。
防炎養生シート。
遺品の多い現場で、火の粉から品物を守るための道具だ。一枚八百円。
炎はシートに当たって左右へ裂け、背後の結晶の壁をどろりと溶かした。
「ああ、いけません。遺品に燃え移ったらどうするんですか」
俺はシートを畳んで一歩踏み込み、ドラゴンの鼻先を、火ばさみの先でこつんと叩いた。
軽く。犬の粗相をたしなめるくらいの力で。
ずしん、と。
三十メートルの巨体が、床に顎をついた。
ドラゴンはしばらく俺を見つめていたが、やがてくう、と情けない声を出し、尻尾を持ち上げた。
「ご協力ありがとうございます」
《コメント欄》
通りすがり:は?
通りすがり:は????
通りすがり:いま、なにしたの
ミウ:え、竜って、ああいう感じなの……?
通りすがり:ちがう。ぜったいちがう
尻尾の下には、指輪や時計や剣の柄が山になっていた。
糸の先にあったのは、くすんだ銀の指輪だった。
白手袋をはめ、拾い上げる前に一度、手を合わせる。
内側に刻印があった。
『T & K』。
その横に、刃物で無理やり引っかいたような、拙い文字が続いていた。
俺はそれを読んで、指輪をそっと裏返した。カメラに刻印が映らない向きに。
「刻印がございます。これはご自宅で、お二人で最初にご覧ください」
遺品が最初に語りかける相手は、ご遺族であるべきだ。
調査員だった頃に、俺が恩師から教わったことだった。
《コメント欄》
佐伯和美:はい
佐伯和美:はい、ありがとうございます
ミウ:……ほんとに、行ってくれたんだ
ミウ:疑って、ごめんなさい
通りすがり:この人、何者
◇
翌朝。
事務所の二階で目を覚ますと、スマホが震えっぱなしだった。
通知が、九百件を超えている。
寝ぼけたまま開いた動画サイトのトップに、見覚えのある作業着が映っていた。
『【放送事故】おっさん、深層六十階のドラゴンに会釈して通る』
再生回数、一千二百万回。
トレンドの一位は英語だった。
『He's just taking a walk in the Abyss』――深層を、散歩してる。
「……散歩ではなく、仕事なんですが」
つぶやいたとき、事務所のインターホンが鳴った。
モニターに映っていたのは、銀色の髪の若い女性だった。
腰に剣を下げている。テレビをほとんど見ない俺でも、顔は知っていた。
日本に十一人しかいないS級探索者。
登録者数八百万人のトップ配信者、霧咲レイ。
彼女はカメラをまっすぐに見て、言った。
「昨夜の『通りすがり』です。――灰島さん、あなた、何者ですか」




