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エピローグ
青い空には千切れ雲が漂い、涼しい風が緩やかに足元の花を揺らして通り過ぎていく。
太陽はあまねく地上を照らし、地上に生きる者たちに光を与える。
「お世話になりました」
ストライプのシャツにチノパン姿の陽太は、深く頭を下げた。結局この格好で一ヶ月過ごした。一応、定期的に洗濯はした。夜洗濯すると朝には乾いているのだ。服がない間はシーツにくるまって行動した。上半身裸族で。どうでもいい話だが。
今日、ようやく呪術師達のヒゲが生えそろい、元の世界へ帰れる。
人型のシャムルとカリンを目の前に、陽太は馴染んだ村を眩しげに見下ろした。
二十二回の昼が過ぎた。平和が戻った村に馴染むには、十分すぎる時間だ。
男達と荷物を運んだり、子供に算数を教えたりしている間は退屈を感じる暇もなかった。
以前は距離の取り方をわきまえている人々ばかり相手にしていたから、村人達のパーソナルスペースの近さに嫌な思いもした。猫だったら気にならないのに、相手が人間だと警戒心が湧くのだ。笑顔の裏に本音を隠して、陽太はそつなく行動しようとした。
それでも、悪意のないこの村の人達に囲まれているうち、警戒しているのがばからしくなった。
戸惑いながらも一緒に笑い、行動を共にしているうちに、彼らの役に立つのが楽しくなってきた。
自分のいた世界では、味わえなかった達成感。
それには、カリンがそばにいてくれることも作用していると思う。
彼女に格好いいところを見せたいと思うし、彼女に嫌われそうなことはしたくない。
夜は白猫、昼は美少女というカリン。陽太が村人と親しくするたびに、嬉しそうな顔をするのを満足な気持ちで陽太は見ていた。カリンにちょっかいをかけようとする男どもがいたことには閉口したが、カリンが鈍くて気づいていないのが幸いだった。
黒い髪をなびかせながら、シャムルが右手を差し出した。
「皆がガイアードに慣れるにはまだ時間が必要そうだが、あんたのよく回る頭と口のおかげでこの村は今、平和そのものだ。ありがとね、英雄ヒナタ」
英雄。この村の猫達が、陽太を呼ぶときにまるで名前の一部のようにつけるようになった。そう呼ばれるほどたいしたことをした実感はないが、いちいち断るのも面倒でそのままにしている。
陽太はその手をしっかりと握り、
「こちらこそ、貴重な体験をさせていただきました。カリンにはお世話になりましたし」
「それねえ。あんた達が本当に付き合ってればいいのに。カリン、こんなにいい男、この村にはいないよ?」
「シャムル!」
少女がため息を吐く母の頬を両手で抓った。「いたひ、いたひ」とシャムルが悲鳴を上げる。ここ数日、元気がなかったカリンだが、大丈夫そうでなによりだ。
風が吹き、カリンの白い髪がさらりと揺れた。シャムルは切なそうに、頬を歪めた。
「結局、あんたの呪いはとけなかったね」
呪いのことを話す前に、サラード・ランは消えてしまったから。
カリンは胸の前でほっそりとした腕を組む。
「私は白い色が気に入ってるの。相談もなしにどうにかしようとするの、やめてよね」
陽太は思わず噴き出した。
この親子のやりとりが好きだった。二人とも口調は乱暴だけれど、相手を気遣い、思いやっているのは伝わってくる。
「僕は白い色の方が好きだな。君をすぐに見つけられるから」
陽太が言うと、カリンは頬を赤くした。
口は回る方だと自覚しているが、なにぶん、自分から誰かを好きになるのは初めてだ。隙があれば褒め言葉を口にする陽太に、最初は反発していたカリンも、そのうち悔しそうに黙るようになった。可愛いから問題はない。
それに、自惚れではなくカリンは陽太が好きだ。夕食のおかずは陽太が食べられる物が日々増えているし(無理はしないでほしいと言ってある)、視線を感じて振り返ると、頬を染めたカリンが慌てて背中を向けているのだ。可愛くてどうしてやろうと毎回思う。
そんな二人をにやにやしながら見ていたシャムルが、空に向かって大きく伸びをする。
「名残惜しいけど、そろそろ行きな。必要があればまた、会うこともあるだろうさ」
「はい。それでは、また。……カリン」
名を呼ぶと俯かれた。頑なに、陽太の顔を見たくない、と言うように。
陽太は深呼吸して、勇気を絞り出した。
「一緒に、僕の世界に行かないか?」
ゆっくりとカリンの顔が上がる。大きく見開かれたエメラルド色の瞳を、やっぱり綺麗だと思いながら、陽太は手を差し出した。
「夜になると猫に変身する人はいないけど、あっちには白でも灰色でもオレンジでも、いろんな色の猫がいる。白猫の君は、どんな猫より綺麗だと皆が褒めてくれるはずだ」
顔はかろうじて微笑みを保っている。でも、心臓の音がうるさい。今、記憶にある限り、初めて緊張している。
翼を広げた鳥が、上空をまっすぐに飛んでいく。遠くで子供達の明るい笑い声がした。
「……ヒナタだけが綺麗って言ってくれたら、それでいい」
それは小さな声。
しかし、伸ばされた細い手は、しっかりと陽太の手を握った。
普段は色白の頬が真っ赤だ。それを指摘する前に、悔しそうにカリンが眉をしかめた。
「サラード・ランに誓ったわよね。結婚したら、私の下僕になってくれるの?」
陽太はにやりと笑った。
「気が早いな。まずはお付き合いからだろ」
「わ、わわ、わかってるわよ!」
慌てるカリンが可愛い。これで夜には猫になって枕元で眠るのだから、可愛くないところを教えてほしいくらいだ。
シャムルがカリンの背を勢いよく叩いた。
「英雄の娘が異世界の人間に嫁ぐ。うん、いいね。カリン、楽しい冒険をしておいで」
頼もしい言葉にカリンは一瞬だけ、言葉に詰まった。母親は満面の笑みを浮かべている。
「ありがとう、シャムル」
カリンはシャムルに抱きついて、しばらくじっとその温かさを全身で感じているようだった。そして陽太を振り返った時、その眼には度胸と覚悟の色があった。
「行こう」
陽太が笑うと、カリンも笑う。
「うん!」
二人は手を繋いで、高台の家から一歩を踏み出した。
【了】
お付き合いいただき、ありがとうございました。