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狂える女神  作者: はるた
3/3

後編

 エリザベート。

 その名を名乗り始めたのは、高級娼婦として力を得始めた時からだった。


 幼少期からその美貌に比肩する者はいなかった。生まれの卑しい彼女にとって、それは最大にして唯一の武器だったのだ。

 成長するにつれその美しさは輝きを強め、体も男を魅了してやまない豊かなものへとなっていった。


 有名な娼館に入り、学のない親から適当につけられた名を捨て、己の美貌に相応しい輝かしい名を名乗るようになった。

 その店でもすぐに上客を何人も持つようになって、そしてある時呼ばれた夜会で、エリザベートは国王に見初められたのだった。


 それは彼女の最大の成功にして、不幸の始まりだった。



     *



「陛下!!」


 衛兵の制止を振り切り、エリザベートは王の執務室へ乗り込んだ。


「エリザベートか。何用だ」

「レオンが――ミレス伯が殺されたというのは、一体どういうことなのです!!」

「殺されたのではない。自殺だ。彼は自分で自分の胸に剣を突き立て、死んだのだ」


 興奮しきったエリザベートに対し、王の声は冷静だった。


 昨晩、国王夫妻と懇意にしていたミレス伯爵レオンが宮殿内で死んだ。驚くべきことに、王女ネージュの部屋で彼は死んでいた。

 ネージュの叫び声で衛兵が部屋に入った時、レオンはすでに息絶えていた。その胸には短剣が突き刺さっていたという。


 王は冷静ではあったが、その顔は憔悴の色がうかがえた。


「ネージュの話では、かねてより伯爵から強引に関係を迫られていたらしい。無下にすることもできず曖昧な態度をとっていたら、ついに昨晩、一緒になれないのなら死んでやると――」

「嘘よ!! そんなこと有り得るはずがない!!」

「しかし、ネージュの部屋に出入りする伯爵の姿を見た者がいるのだ。ネージュ……わたしに相談してくれていたら、心に傷を負うこともなかっただろうに」

「ネージュが殺したのです! 毒か何かで殺した後、剣を胸に刺して自害したように見せかけた。そうに決まっている!!」

「エリザベートよ、それこそ有り得ぬ。ネージュに伯爵を殺す理由はない。それに、あのような天使のような子が……」


 エリザベートは懇願するように王へ語りかけた。


「陛下、あの女は皆が言うような天使や女神などではありません。性根の腐った悪魔のような女――!」

「それをそなたが申すのか、エリザベート」


 しかし、王の目は冷ややかだった。


「そなたと伯爵の関係、わたしが知らぬとでも思っていたか」

「――!!」

「伯爵は政務の上で重要な立場にある者だった。体面もある。ゆえに目をつむっていた。しかし、ことがここまで大きくなると話は別だ。……そなたは伯爵がネージュに言い寄っていたことを知っていたのではないか」

「まさか……わたしが、レオンを殺したとでも言うのですか」

「エリザベートよ。そなたはわたしが望んで妻にした女だ。わたしの身勝手で宮廷に入れたことを哀れにも思っていた――そなたがいとしかったからこそだ。ゆえにネージュとの仲が良くないことも、素行の悪さにも見て見ぬふりをしてきた。しかし、そろそろ我慢も限界だ」


 不思議とエリザベートは冷静になって、すっと背筋を伸ばして立った。


「……よくもぬけぬけと、そのような白々しい言葉が出てくるものですわね」

「なに?」

「わたくしをいとしいと思ったことなどないくせに。ただ見目の良い人形が欲しかっただけよ。あなたはネージュが母親以上の美姫になることだけを期待していたのですものね」


 震えながらも勝ち誇ったかのようなエリザベートの声に、王の表情は凍り付く。


「あなたが怒っているのは、レオンがネージュのか弱い心に傷を作ったからではないわ。自分よりも先にレオンに手を出されたからなのでしょう。いつか自分が最初に味わうために大切に育てていたものを、田舎貴族の若造に奪われてしまったのだもの。ふふ、どうしようもなく怒りに震えていることでしょうね、あなたの内心は。いい気味だわ。まったく、おぞましい父娘だこと」


 握りしめた王の拳が震えている。


 エリザベートはさっと踵を返し、部屋を出た。扉の横には――


「――ネージュ」

「お義母さま……」


 心細そうに立つ少女。エリザベートの腹の底からどうしようもないほどの憎悪と憤怒が沸き起こって来る。


「わたくしの部屋に一人で来なさい。話があるの」


 エリザベートは精一杯声を落ち着けて静かにそう告げた。


 何が起こっても、この女だけはこの手で殺してやる。

 もう薄汚い夫の隣に座る妃の地位などいらぬ。

 レオンはネージュに殺された。そしてその復讐を果たす。エリザベートの心にあるのはそれだけだった。



     *



 エリザベートは引き出しの奥に閉まってある小瓶を取り出した。装飾の施されたそれは一見、香水のように見える。

 あらかじめ用意させた二人分の紅茶。まだ湯気の立つそれの一つに、小瓶の中に入っている透明な液体を二、三滴たらした。

 それは猛毒だった。味や匂いは皆無で、口にしてもまず気付かない。おまけにごく少量で死にいたらしめる恐ろしいものだ。効き目は遅いが、少しでも口にすれば必ず死ぬ。遅いと言っても十分やそこらだ。やがて呼吸ができなくなり、血を吐き、苦しみながら死に絶える。


 部屋の扉が叩かれた。


「お義母さま。ネージュです」

「入りなさい」


 エリザベートは窓の際に立ち、席に着くネージュを見つめた。

 誰が見ても美しいと言うに違いない。どれほど本性が腐っていても、それだけは認めざるをえなかった。


「こうして二人で話すのは初めてのことね」

「ええ。お義母さまがわたしを自室に呼んでくださるなんて、うれしいですわ」


 エリザベートはテーブルを挟んでネージュの正面の椅子に座り、先に紅茶に口を付けた。ネージュに紅茶を飲むよう、暗黙のうちに促すために。


 ごく自然な動きで、ネージュは菓子に手をつけた。そして次に毒の紅茶が入ったカップを持つ――

 それを可憐な唇へ持っていく。

 こくり、と白い喉が動いた。


 ――飲んだ!!


 歓喜で打ち震えそうになるのをおさえ、エリザベートはたずねた。


「わたくしがおまえに確かめたいのは、レオンのことよ」


 ネージュの動きが止まった。そしてじっとエリザベートを見返す。


「何をお聞きになりたいというのです?」

「おまえはレオンが自分を殺そうとしていたことに気付いていた。だから、レオンを殺した」

「……一体、なんのことですか」

「とぼける必要はない。わたくしはもう何も失うものなどないの。たとえわたくしがおまえを殺そうとしていたと皆に知れても、どうでもいいことだわ」

「…………」

「わたくしはずっとおまえが憎くてたまらなかった。あらゆる人間から愛され、美しいと言われながら育てられるおまえが。そして何より、わたくしを内心で卑しい娼婦と軽蔑していたおまえが!」

「やっと……本当のことを言ってくださったのね、お義母さま」


 ネージュの声は柔らかかった。その唇には微笑みが浮かんでいる。


「お義母さまに嫌われていたこと、ずっと知っていました。でも、本当は仲良くしたかった……」

「何を、白々しい――」

「本当です! これだけは信じてください。お父さまや周りの人間がわたしの容姿ばかりを褒めて気味が悪いほどわたしをちやほやする中、わたしに憎いという感情を隠さないのは、あなただけでした。本当は多くの者がそう思っていたはずです。しかしわたしという人間を己の損得に利用することしか考えず、皆わたしの機嫌をとろうと必死だった。ミレス伯爵も、わたしを性欲の処理としてしか考えていなかった。でも、お義母さま、あなたは……わたしを道具としてではなく、人間として扱ってくださいました。たとえそれが憎しみだったとしても……わたしはうれしかった」


 ネージュの瞳から涙が流れ落ちる。十六年の短い生の中で味わったであろう悲しみや苦しみ。それが黒真珠のような双眸から雫となって落ちていた。

 エリザベートは自然と震える手で己の口元を覆っていた。


「ネージュ……」

「だからわたしは……この紅茶や菓子に毒が入っていたとしても、構いません」

「!」

「わたしがお義母さまを傷付けたのは真実だもの。これ以上道具として利用される前に、あなたに殺してもらえるのなら――わたしは幸せです」


 なんということを――なんということをしてしまったのだろう。

 ネージュを愛してなどいなかった。殺したいとずっと思っていた。そしてそれが叶うというのに――


(こんな、哀れな娘をわたしは――)


 道具として扱われ続け、愛に執着するようになった自分。ネージュはまるで、過去の自分だった。


 ネージュが苦し気にうめき、椅子からくずれおちた。


「ネージュ!」


 思わずネージュの体を抱き留める。


「お義母さま、わたしは――」


 ネージュの声はかすれていた。見ていられず、エリザベートはその細い体を抱きしめた。


「ああ、ネージュ。ごめんなさい……愚かなわたしを許して」

「いいえ、お義母さま……わたしは最初からあなたを憎んでなどいませんわ。だから……」


 ずくん、と胸に痛みが走る。


「さようなら」


 エリザベートは自分の身に何が起こったのかわからなかった。


 今の今まで苦しんでいたはずのネージュはすくっと立ち上がって、エリザベートを見下ろしている。

 起き上がれないでいるエリザベートは自分の胸に目を落とす。淡い色のドレスが真っ赤に染まっていた。


「ネー、ジュ……何を……」


 ネージュの華奢な右手には手の大きさほどの極小の剣が握られていた。そしてその刃はエリザベートの胸元を染める色と同じ赤に濡れている。


「期待外れでしたわ、お義母さま。あなたはもっと強く生々しく、女の毒を存分に持った人だと思っていたのに……わたしの涙くらいで絆されてしまうだなんて」


 再び椅子に座り、美しい女神の姿をした悪魔は愉しそうにエリザベートを見下ろしていた。


「ミレス伯爵を殺したのはわたしです。そろそろあなたに知られる頃合いだと感じていたから始末しようと思っていたのだけれど、あの夜は明らかにいつもと様子が違ったので……特製の紅を塗っておいて正解だった」

「紅……」


 しかし、先ほど毒を飲んだはず。なぜこうも平然としていられる?

 そのエリザベートの疑問を見透かし、ネージュはこう言った。


「ただの飲むふりですわ。あなたの緊張は部屋に入った時から伝わって来たし、それに、これみよがしに紅茶を飲むよう催促してきたじゃありませんか。あらかじめ解毒剤も飲んでおいたの。だからなんともないわ」

「……!」

「わたし、小さい頃から草花が好きだったの。花言葉も、毒のある植物も、大抵のことには通じているわ。ある猛毒を持つ花から作った、毒の紅。触れるだけならどうってことないけれど、口に入れたが最後、たちまち苦しんで死ぬわ。――そんなことも露知らず、伯爵は激しく唇を重ねてきた。いつものように」

「こ、この……悪魔! 天性の娼婦よ、おまえは――」


 憎しみのこもったエリザベートの言葉にも、ネージュは微笑みを返すだけだ。


「わたしはずっと昔から、あなたが女としてわたしを嫌っていたことを知っていた。でもわたしはあなたが嫌いではなかったわ。これはさっき言った通り本当よ。でもね、わたしはあなたの地位にも女としての幸福にもしがみついている滑稽な姿が好きだったの。――違うって? ふふ、何よりの真実じゃない。王妃でありながら、若い愛人を作っていた。権力も愛もどちらも得ようと必死だったでしょう。――ところが愛する恋人を失って、あなたは狂ってしまった。大切に守ってきた地位を捨てて、憎いわたしを殺そうとした。――潮時だったのね。もうわたしに殺意を持った人間を生かしておく理由もないし……あなた、思ったより“いい人”でつまらなくなってしまったわ」

「……地獄に……落ちるがいい」

「死んで地獄に落ちるとしても、これからわたしはアドルフ王子と結婚して、あなたが欲しかったすべてを手に入れるのよ。権力、愛、自由――すべてをね。美貌しか持っていなかったあなたと違って、わたしには知性があるわ。あと十数年しかもたない若さ頼りの美しさだけが武器ではないもの。――あら、もう死んでしまったのかしら」


 ネージュは短剣をエリザベートの手に握らせ、傷口に突き立てた。レオンにそうしたように。


「心配しないで、お義母さま。あなたは愛人を失った悲しみのあまり、自害したということにしておくわ。わたしを殺そうとしたことは、わたしの胸の中だけにとどめておいてあげる。大丈夫、すべてはわたしの思い通りにいくわ――」



     *



 その美しさから継母に疎まれ波乱万丈の少女時代を送りながらも、嫁いだ先で幸福を手にしたという稀代の美姫・ネージュ。その名はいくつもの歴史書に名を残し、彼女は夢見る少女たちのまさに理想となっていた。

 しかし、こんな噂もある。

 彼女の周囲では、毒殺と見られる不審な死が相次いでいた。正史には残っていないが、その大半は、彼女の父親や夫がもみ消していたものとされている。

 彼女は快楽のために気ままに殺人を犯していた精神異常者だったのではという説を、少ないながら唱える歴史学者もいる。

 ネージュ姫の伝説はすでに遠い過去の出来事である。真実を知る者はいない。


 いくつもの肖像画に描かれるネージュ姫のその姿はいつも、漆黒の髪と瞳、雪のように白い肌、そして林檎のように赤い唇を持つ、可憐な美女である。

 描かれたネージュの姿を見た者は皆一様に言う。現世の女神のようだ、と。

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