陽光、そよ風、花の香り、そして散りゆく人々
同じ日のこと。
朝食を済ませた極天は、季平と一緒に家を出た。
陽光は適度に調整され、暖かな光が街へ降り注いでいる。
時折吹くそよ風が、ひどく心地いい。
二人は並んで街道を歩いていた。
季平が大きく伸びをする。
「極天、今日は仕事ないのか?」
「うん。用事がなければ行かなくていい」
季平は軽く頷き、二人はそのまま歩き続けた。
バス停を通りかかったところで、季平は二歩を一歩にして先に駆けていく。
停留所に設置されたスクリーンを操作しながら、振り返った。
「極天、今日はどの花の香りにする?」
極天がスクリーンの前まで行く。
そこにはいくつもの花の名前が表示されていた。
ジャスミン。
クチナシ。
キンモクセイ。
ユリ。
ラン。
……
季平は時刻を確認する。
「急げ、あと一分だ」
「もしかしたら、俺たちの一票が決定票になるかもしれないぞ」
「うん……じゃあ、ランで」
季平が「ラン」の項目をタップする。
すると画面が切り替わり、それまで選択画面の裏に隠されていた「棒グラフ」が表示された。
季平は笑う。
「今日は本当にランが一番多いな」
時刻がちょうど【8:00】になった。
街道の両側。
それまで何もなかった緑地帯の土から、何かが次々と顔を出していく。
小さな芽が点々と現れ、それがやがて一面へと広がっていく。
まるで地面に緑の絨毯が敷かれたように、ゆらゆらと揺れている。
よく見れば、土の中から伸びているのは無数の新芽だった。
それらは猛烈な勢いで成長し、あっという間に植物の姿へ変わっていく。
そして、すぐにそれがランだと分かるようになった。
ほどなくして蕾が膨らみ――
一斉に、花開く。
そのタイミングを見計らったかのように、そよ風が街を吹き抜けた。
清らかで上品なランの香りが、街全体を満たしていく。
極天は視線を戻した。
「兄さん」
「ん? どうした?」
「なあ……院長先生のところ、行かないか?」
季平の声が、一瞬だけ止まった。
「……ああ」
「行こう」
――――
極天と季平は交通機関を使わず、そのまま歩いて向かうことにした。
少し休みたくなったときは、「歩行エレベーター」に乗る。
地面と平行に伸び、街を横切っていくそのエレベーターが、二人を乗せたまましばらく「歩かせて」くれる。
途中、広場を通った。
そこはかなり広く、至るところで様々な催しが行われている。
巨大なホログラムロボット同士が戦っている。
かと思えば、灰白色のローブを身にまとい、高く尖った魔法帽を被った人間が、地面に魔法陣を展開している。
そして、墓地から骸骨が這い出してくる「魔法」を披露していた。
人々が次々と集まり、広場は大いに賑わっている。
「へえ……」
「歴史って、本当に繰り返すんだな」
季平は歩きながら、昔を思い出す。
「子供の頃は、ここも結構賑やかだったんだよ」
「でも情報端末が普及して、意識潜航まで再び一般化した頃は、こんなところに人なんてほとんどいなかった」
「みんな家にこもって、こっそり意識潜入ゲームに夢中になってたからな」
「ネットの友達に通信をかけても、出た瞬間に『EX――カリバー!』とか叫ぶ奴までいた」
「一時期、本当に現実とゲームの区別がつかなくなったんじゃないかと思ったよ」
極天は黙って話を聞いていた。
その脳裏にも、七歳を過ぎてからの子供時代の記憶が時折浮かんでいた。
季平が楽しそうに話し続けていた、そのとき。
【ただいま全品セール中!】
【オープン記念、大特価!】
「?」
「?」
二人は同時に足を止め、互いの顔を見る。
極天が口を開いた。
「兄さんも届いた?」
季平が頷く。
「ああ」
「どういうことだ?」
「ポップアップ広告、切ってなかったのか?」
極天は情報端末の設定画面を開く。
【パーソナライズド通知:OFF】
設定画面を閉じ、季平を見る。
「俺は切ってある」
数秒待つ。
「俺も切ってるぞ」
「……変だな」
二人は歩みを止めなかった。
しばらく進むと、ポップアップ広告はもう表示されなくなった。
二人は、どこかのろくでもない奴が情報端末会社を買収でもして、強制的に広告を流しているのだろうと考えた。
広場の中。
賑わう人々の間に、小さな「驚き」が一つ、また一つと静かに落ちていく。
「えっ!」
一人の女性が突然足を止め、口元を手で覆った。
隣にいた男が不思議そうに尋ねる。
「どうした、ダーリン?」
女性が振り返る。
目が輝いている。
「ねえ、あなた。さっき情報端末に、ショッピングモールのバッグが期間限定で五割引って出たの!」
彼女は男の腕に抱きつき、軽く揺さぶる。
「早く行こうよ。ね?」
男は少し迷った。
だが、すぐに頷く。
「分かった。君が楽しければいいよ」
二人は腕を組み、その場を離れていった。
似たような光景が、次々と起こる。
「ねえ、あっちのアクセサリー、割引されてる。早く!」
「あなた、早く来て!」
「お兄ちゃん最高~、ちゅっ!」
……
次々と男女が広場から散っていく。
広場の別の場所では。
のんびり散歩していた年配の夫婦が、突然言い争いを始めた。
「帰るぞ! 今すぐ村に戻る!」
爺さんはその場に立ったまま、妻に袖を引っ張られている。
「どうしたんだ、ばあさん」
「村で宇宙人の卵を配ってるんだよ!」
「行かん」
「もう何時代だと思ってるんだ。そんなもの欲しがってどうする」
老婆の顔が険しくなる。
そして、夫の腕をつねり、さらに引っ張る。
「一人多ければ、一人分多くもらえるだろ!」
爺さんの顔が痛みで引きつる。
「分かった分かった! そんなに引っ張るな!」
広場のあちこちで。
「何!? 自治体から生活支援が出た!?」
「兄弟、急げ! あっちで最新型の伴侶人形を展示してるぞ!」
「早く~! レストランの季節限定復刻メニューに間に合わなくなるよ~!」
「大型有人ロボットが港で販売開始だ! 兄弟たち、突撃だ!」
「そんなもん、デカい以外に何の役に立つんだ?」
「親不孝者め! 男のロマンをお前の尻に突っ込んでやる!」
「馮兄さん、限定版の実体ゲームストレージが発売されるみたいです。見に行きません?」
広場の端で、馮一語が足を止めた。
振り返る。
さっきまで大勢いた人々が、瞬く間に散っていく。
馮一語は呟いた。
「十分に暇なら、意外と面白いものがたくさん見つかるもんだな」
そう言うと、自分で首を横に振った。
「いや……人々が興味を持っていないだけなのかもしれない」
「目に入ったところで、どうなる?」
「一瞬だけ感じる違和感より、確実で明確な情報のほうが、人を惹きつけるんだろうな」
馮一語の隣では、少年が俯いたまま情報端末を操作している。
彼はもう一度、小さな声で呼びかけた。
「馮兄さん?」
返事はない。
顔を上げると、馮一語は何かを考えるようにぼんやりしていた。
少年は彼の腕を引っ張る。
「行きます?」
馮一語が我に返る。
「ああ。行こう」
……
広場から、人の姿がほとんど消えた。
カツ。
チリン――。
手首に赤い布を巻き、足首には二つの金の腕輪をつけた男が、足を止めた。
広場の中央に立つ。
そして顔を上げた。
視線の先には、青く、果てしなく広がる空。
――――
風が吹く。
葉が落ちる。
さらさらという音が響く。
柔らかく、どこか物悲しい歌声が、少しずつ耳元へ届いてくる。
「極天、言うなよ」
「ここ、墓地の雰囲気が結構いいな」
季平は頭を上げたまま、隣の極天へ顔を向ける。
「風が吹いて、落ち葉が舞って、そのうえ音楽まで流れてる」
二人は黄金色の落ち葉で覆われた小道を歩きながら、途切れ途切れに言葉を交わしていた。
そのとき。
極天の視界の端に、いくつかの光線が街へ落ちるのが見えた。
彼は振り返る。
「どうした、極天?」
季平も彼の視線を追う。
遠くに広がる街は、静まり返っていた。
「さっき……何かが何度か光ったような気がする」
そう言って、首を横に振る。
「たぶん、見間違いだ」
季平が近寄ってくる。
「目に何か入ったんじゃないか?」
そして極天の目元へ手を伸ばし、まぶたを開こうとする。
「ほら、吹いてやるよ」
極天は避けなかった。
「……何もないな」
「やっぱり見間違いだろ」
二人は再び歩き始めた。
やがて、一つの墓の前へ辿り着く。
――院長先生 李芳芯之墓
季平が前へ出る。
腰を屈め、持ってきた花を墓前へ供えた。
「母さん」
「俺と極天で、会いに来たよ」
そう言って、墓石へ顔を寄せる。
耳元で囁くように続けた。
「俺たち、ちゃんと生きてるから」
そして振り返り、極天を見る。
その目には、どこか生気がなかった。
再び墓へ向き直る。
まるで秘密話をするように、静かに呟いた。
「安心してくれ、母さん」
「俺がちゃんと極天の面倒を見るから」
季平が立ち上がり、場所を譲る。
極天はしばらく躊躇った。
やがて前へ進み、しゃがみ込む。
手にしていた花を、墓前へそっと置いた。
「院長先生。俺たち、会いに来ました」
その一言を口にしたあと、極天は何も言わなかった。
――ごめんなさい、母さん。
――あれが事故じゃないことは、分かってる。
――どう探しても、手がかりが見つからない。
――湮甦に入る以外に……
――俺には、本当にもう方法がないんだ。
――ごめんなさい……
長い時間が過ぎた。
二人はそれぞれの感情を整理するように静かに佇んだあと、墓前を後にした。




