冷たい地下室と、黒曜石の悪魔
ぽたり、ぽたり。
冷たい水滴が落ちる音で、私はゆっくりと目を開けました。
「……ここは、どこ……?」
起き上がろうとすると、全身にズキッとした痛みが走ります。
細くて、傷だらけの小さな手。すり切れたボロボロのワンピース。
ここは、日の光がいっさい入らない、カビ臭い地下室でした。
(私、処刑されたはずじゃ……?)
頭の奥が、ガンガンと痛みます。
私、リリアは思い出したのです。自分が『三度目の人生』を生きているということを。
一番最初の人生は、平和な日本という国で生きる普通の女子高生でした。
でも、交通事故であっけなく死んでしまい、気がつくとこの魔法がある異世界に「リリア」として生まれ変わっていました。
二度目の人生であるリリアとしての生活は、最悪でした。
親の顔も知らない孤児として育ち、孤児院では毎日ひどい扱いを受けました。
その後、貴族の養女になりましたが、偽物の聖女の罠にはめられて「国を裏切った悪役令嬢」として、十七歳でギロチンにかけられてしまったのです。
首を落とされた瞬間の恐ろしい記憶がよみがえり、私はガタガタと震えながら自分の首を両手で押さえました。
「……生きてる。首、つながってる……」
水たまりに映る自分の顔を見て、息をのみました。
銀色のパサパサの髪に、紫色の大きな瞳。
やせこけてはいますが、間違いなく七歳だった頃の私です。
(神様が、時間を巻き戻してくれたの……?)
だとしたら、ここはあの恐ろしい『希望の星 孤児院』の地下室です。
私が、少しでも不思議な力を使って傷ついた小鳥を治したりすると、院長先生は「気味が悪い化け物!」と言って、私をこの真っ暗な地下室に閉じ込めるのです。
二度目の人生では、この不思議な力のせいで悪者たちに利用されてしまいました。
(もう嫌だ……。今度は誰にも心を開かない。力も絶対に隠して、一人でひっそり生きるんだから……!)
私がそう決意して膝を抱え込んでいると、突然、地下室の重たい木の扉が、バーンッ! とものすごい音を立てて蹴り開けられました。
「ひっ……!」
院長先生がムチを持ってやってきたのかと思い、私は壁の隅っこに体を丸めました。
しかし、階段の上から見下ろしていたのは、太った院長先生ではありませんでした。
「……こんなカビ臭い地下牢に、子どもを閉じ込めていたのか」
地響きのように低くて、恐ろしい声でした。
コツン、コツンと、重たいブーツの音を鳴らして階段を下りてきたのは、背のとても高い男の人でした。
真っ黒なマントに、軍服のようなカチッとした服。
夜の闇のような黒髪に、獲物をにらむオオカミのような、鋭く冷たい金色の瞳。
顔には大きな刀の傷跡があり、ものすごく怖い顔をしています。
その人の後ろで、太った院長先生が青い顔をして震えていました。
「お、お待ちください、オブシディアン公爵閣下! その子は手癖が悪くて嘘つきで、呪われた力を使う気味の悪いガキなんでさぁ!」
(オブシディアン公爵……!)
私は息が止まりそうになりました。
ヴォルフガング・フォン・オブシディアン。
『黒曜石の悪魔』と呼ばれ、戦場では敵を容赦なく切り捨てる、冷酷無比で一番恐れられている大貴族です。
なぜ、そんな雲の上の人が、こんな汚い孤児院にいるの?
「うるさい。黙れ」
公爵がギロリと院長をにらむと、空気が凍りついたように冷たくなりました。
「ひいっ!」と悲鳴を上げて、院長先生は腰を抜かしてひっくり返ってしまいました。
公爵はゆっくりと、私が丸まっている隅っこに近づいてきました。
(殺される……!)
私はギュッと目をつぶり、両手で頭をかばいました。どんなに痛いことをされるのかと、ガタガタと歯が鳴ります。
しかし――。
「……痛かっただろう。もう大丈夫だ」
降ってきたのは、暴力ではありませんでした。
大きくて、ごつごつした、でもとても温かい手が、私のボサボサの頭をそっと撫でたのです。
おそるおそる目を開けると、目の前に公爵の怖い顔がありました。
でも、その金色の瞳は、さっきまでとは全然違って、傷ついた小さな動物を心配するような、とても優しい色をしていました。
公爵は大きなマントをバサッと脱ぐと、ボロボロの服を着た私の体を、頭からすっぽりと包み込んでくれました。
ふわふわで、お日様のような良い匂いがします。
「ひどい熱だ。……よく、一人で頑張ったな」
公爵は軽々と私を抱き上げました。
その腕の中は、私が生まれて初めて感じた「安全な場所」でした。
「公爵閣下! そのような薄汚い孤児を抱くなど、どうかおやめください!」
泣き叫ぶ院長先生に向かって、公爵は氷のような声で言いました。
「貴様は、罪のない子どもたちを虐待し、国からの援助金を盗んだ罪で逮捕する。一生、牢屋から出られないと思え」
「そ、そんなァァーッ!」
絶望して泣きわめく院長先生の声を背中に聞きながら、公爵は私を抱いたまま地下室から歩き出しました。
「あなたは……どうして、私を……?」
熱でぼんやりする頭で、私はかすれた声で尋ねました。
私はただの、誰にも必要とされない汚い孤児なのに。
公爵は少しだけ歩くのを止めて、私を見つめました。
「お前は、私にとって必要な子どもだ。これからは、私が絶対にお前を守る」
不器用だけれど、とてもまっすぐで力強い言葉でした。
(うそだ……。大人はみんな、私を利用するだけだもの……)
そう思って心を閉ざそうとしているのに、公爵の温かい胸の鼓動を聞いていると、ずっとこらえていた涙がポロポロとあふれてきました。
「……あ、ああっ……うわぁぁぁんっ……!」
私は公爵の胸の中で、大きな声を上げて泣きました。
これまでのつらかったこと、怖かったこと、全部を洗い流すように。
公爵は私が泣き止むまで、ずっと背中をトントンと優しく叩いてくれていました。
これが、私と、世界一怖くて世界一優しい「パパ」との、出会いでした。




