第12話:商談と、初仕事
「で、だ。鴨葱くんに、こっちも話そうと思ってたことがある。牧場跡地のことだ。鴨葱くん、欲しがっていただろ?」
ロイさんの声のトーンが安定する。
「……はい。新聞の土地欄で見て、気になって来たのが元々の理由ですから」
「ははっ。そうだよな。……まず、金はあるのか?」
「あります! えーと、確か……全財産で四ソル金貨!」
『……と、一ソル大銀貨、二ソル大銅貨、四ソル銅貨です、ご主人様。端数を切り捨てるのは無能の始まりですよ』
「……それと、一ソル大銀貨、二ソル大銅貨、四ソル銅貨ならあります」
「ははっ! 細かいな、少年。だが商売をする上では大事だ。……あの土地の相場は八ソル金貨だが、少年に免じて、ここはきっかり四ソル金貨で譲ってやろう。端数の銀貨と銅貨はおまけしてやる」
「ええっ!? いいんですか!」
「ダメよ」
「え?」
エレナさんが、ピシャリと言った。
室温が一段下がった気がした。物理的な寒気すら感じる。
「だからダメよ。アナタも適当なこと言わないの。四ソル金貨っぽっちじゃ赤字もいいところよ。まったく、あなたに家の財布を握らせなくて本当によかったわ」
「ダメだってさ、鴨葱くん」
「え~~! 上げて落とします!? ロイさん、めちゃくちゃカッコ悪いよ!」
「ごめんね、鴨葱くん。この人、狩りの腕は超一流なんだけど、数字に関しては筋肉が脳みそまでズブズブに……ううん、ムキムキに浸蝕してるの。昔一回だけ経営を任せたことあるけど、毎月二ソル金貨の黒字を出していたところを、たった二か月でマイナス一ソル金貨の借金まみれに変えた天才なのよ。ありがたい限りよねえ」
「そ、そうですか……ハハ。破壊的な才能ですね……」
「……もう! そんなにシュンとされたら、私が意地悪してるみたいじゃない。……いいわよ。ふふふ。負けてあげるわ」
「ほ、ほんとですかっ!?」
「本当に素直な顔ね。ちょっと計算するから、期待せずに待ってなさい」
エレナさんは指を折りながら、空中で何かを計算し始めた。
指の動きが妙に速い。慣れている。
ロイさんが頼れる狩人なら、明らかにこの家の「ボス」は彼女だ。
一国の主のような風貌があるのは気のせいだろうか。
「えーと、たしか来月の経費が小麦政策で安くなるから——よし。出たわよ、鴨葱くん」
異様に計算が早いのは気のせいか。
結論を出すまでに、おそらく十秒ほどしか経ってない。
「今なら八ソル金貨のところを、六ソル金貨で売ってあげるわ。それ以上は一ソル銅貨たりとも、まけません。ごめんね」
エレナさんが提示したのは、慈悲と現実の境界線だった。
「六ソル金貨……」
僕の手持ちは、四ソル金貨と少し。
——あと二枚足りない。
たかが二枚、されど二枚。
学生の身分には絶望的な壁だ。
アルバイトで一金貨を稼ぐだけでも、普通なら半年はかかる。
「わかりました……貯まったらまた来ます……」
肩を落として立ち上がろうとした、その時だった。
エレナさんが、にんまりと——まるで罠にかかった獲物を見るように笑った。
「そういえばウチ、ちょうど飼育員の募集をしてるのよね」
「……え?」
「仕事内容は、牧場の管理と毎朝の牛の世話。給与は月給十八銀貨ってとこでどうかしら。……どう? 足りない分の二金貨、ここで働いて返すってのは? もちろん臨時収入が入れば、バーッと繰り上げ返済してもらってもいいわ」
僕はロイさんとエレナさんの顔を交互に見た。
二人とも、ニカっと笑っていた。
……え、待って。
条件を整理しよう。
牛の世話ができて(至福)。
牧場の勉強ができて(経験値)。
それで僕だけの牧場が手に入る(夢)。
(しかも十八銀貨!? お金をもらいながら牛に触れるの!?)
普通ならお金を払ってでも触りたい牛に、お金をもらって触れる。
これは労働契約じゃない。実質的な「ご褒美」だ。
「やります!! ぜひ、やらせてください!!」
食い気味に返事をした。
こんな好条件、逃す手はない。
「よし、商談成立だな! なら、さっそく明日から——」
ロイさんが僕の肩を叩こうとした、その時だった。
ドクン。
心臓が跳ねたみたいな感覚。
いや、僕の心臓じゃない。
外だ。地面の下だ。
ドッドッドッドッドッ……!
重たい蹄の音が、異常な速度で近づいてくる。
一つや二つじゃない。軍隊のような統率と、雪崩のような質量。
さっきハクゲツを食べて鋭敏になった感覚が、その「異常な殺気」を強制的に拾ってしまった。
鼓膜より先に、骨が震える。
「……なにか、来る」
僕が呟いたのと、ロイさんから表情が消えたのは同時だった。
「エレナ、伏せろッ!!」
ズドォォォォォン!!
轟音と共に、家が大きく悲鳴を上げた。
地震じゃない。物理的な衝撃だ。何トンもの質量が、家の壁に激突したんだ。
「きゃあっ!」
エレナさんが短く悲鳴を上げる。
ロイさんが瞬時に壁にかけてあったクロスボウを手に取り、僕も反射的に立ち上がった。
割れた窓の隙間から、外の光景が目に飛び込んでくる。
——そこには、悪夢があった。
日が落ちかけていて、外はもう薄暗い。
輪郭はぼやけ、距離感も掴みにくい。
それでも、あの「白」だけは闇に浮く。
白い毛並み。青白く輝く角。
見間違えるはずもない。
さっき僕が食べて、そのあまりの美味さに感動した、あの月冠鹿だ。
だが、様子がおかしい。
あの神秘的だった瞳が、血走って真っ赤に染まっている。
口からは涎が垂れ、完全に興奮状態だ。
窓越しに見える、ハクゲツの数を確認する。
一頭じゃない。
二頭、三頭……七頭!?
七頭のハクゲツが、まるで何かに追われるように、死に物狂いでこの家に突撃してきている。
ガァァァァン!
二撃目。
鋭利な角がドアを突き破り、木片が弾け飛ぶ。
切っ先が、エレナさんの頬を掠めた。
「ッ……!」
ロイさんの顔色が変わり、矢をつがえる。
だが、僕は見てしまった。
突き破られたドアの隙間から覗く、その異常な巨体を。
「……でかい」
戦慄が走る。
さっき食べたハクゲツとは、わけが違う。
薄闇のせいで、最初は「大きい気がする」程度だった。
だが、振動で伝わってくる「重さ」が嘘を否定する。
骨格の太さ。
筋肉の盛り上がり。
そして角の鋭さ。
何もかもが桁違いだ。
(サイズが、二回りは違うぞ……!)
そこで、ハッとした。
「ハクゲツ」だと思っていたモノの意味が、書き換わる。
(まさか……僕が食べたのも、ロイさんが狩ったのも……まだ“子供”だったのか!?)
だとしたら、目の前にいるのは——成体。
子供を狩られた怒りか、それとも森の異変による暴走か。
どちらにせよ、災害級の質量が七頭。
真正面からやり合えば、この家なんて紙細工みたいに潰される。
(……くそっ)
僕は奥歯を噛み締めた。
新天地で迎え入れてくれた、暖かな僕の居場所。
牧場を手に入れるための、大切な職場。
それを、こんな理不尽な暴走で壊されてたまるか。
「ロイさん、エレナさんを守ってください」
「言われなくてもそうする! だが鴨葱くん、あれはヤバいぞ!」
僕は前に出た。
相手は格上の成体。調理器具で捌けるサイズじゃないかもしれない。
足裏の振動で拾った脅威が、膝の震えに変換される。
恐怖で足がすくみそうになるのを、脳内の冷静な声が落ち着けた。
『ご主人様、補足情報です。討伐難易度はSV(戦力値)で表しますわ。最低戦力として要される基準兵一名をSV10として換算する指標です。月冠鹿の幼体はSV80級——基準兵八名分。成体はSV240級——基準兵二十四名分です』
(ハハ……絶望的な数字をありがとう、ミネルヴァ)
『そして、成体が七頭。総存在SVは1680。ですが“群れ討伐”は単純加算ではありません。地形と手順次第で各個撃破が成立するなら、総存在SVを分散係数で割り戻します。七頭規模の標準係数は2.1。推定の討伐必要戦力は——SV800前後。基準兵換算で八十名分ですわ。せいぜい抗ってみてはいかがですか?』
百六十八人分、からの——八十人分。
数字が下がっても、安心なんてできるはずがない。
そもそもこっちの戦力は、子どもひとり、女性ひとり、男性ひとり。
ピクニックするなら、最適なメンバー。
しかしこの局面では別。そんな即席の三人パーティーが、普通どうにかできる相手じゃないのは明白だった。
あまりの戦力差に、乾いた笑いが出そうになる。
だが、逃げるつもりは毛頭ない。
僕が一歩も引かないのを見て、ロイさんが血相を変えて叫んだ。
「鴨葱くん! あんたはまだ子供だ。やれるのかいっ!?」
その言葉が、胸に刺さる。
そうだ。僕は学生で、子供だ。
震える足がそれを証明している。
——だけど。
相手が「食材」であるなら、やることは変わらない。
僕は今まで、ただ「のほほんと牛の乳を絞っていた」だけじゃない。
実家の経営が傾いたとき、生活のために山へ入り、泥にまみれて狩りをしてきた。
毒蛇に噛まれたことだってある。熊に腹を裂かれそうになったこともある。崖から落ちて死にかけたこともある。川の主の大魚に丸のみにされたことだって。
そのたびに、父さんのため、そして自分のために、「命とは何か」を嫌というほど考えてきた。
奪わなければ、生きられない。
食べることは、背負うことだ。
——死ぬ命は巡る命。
その重さを知っているなら、怖くても足を踏み出せ。
美味しい乳製品を作るためなら、地獄の釜の底だって舐めてやる。
(覚悟を決めろ、焔乃士!)
腹の底に、熱い塊が落ちた。
膝をガツンと拳で叩いて、震えを止める。
世界が、スローモーションのように鮮明になる。
僕はロイさんを振り返らず、前だけを見据えて答えた。
「初仕事だ。——僕に任せてください」
二人の前に、盾になるように立つ。
大きく息を吸い込み、肺を酸素で満たす。
腕を振るうなら難易度は上々。
さあ、調理開始だ。




