『孤独な死刑宣告』
げほ。
意識に、白く眩しい日差しが突き刺さった。
灼けつく光が眼球の奥を焼き、無理やり意識を引きずり戻す。
(……吐きそう)
胃がひっくり返ったような強烈な吐き気がこみ上げた。
白い何かが、降っている。
(——雪? いや、これは……)
舌の上に、ざらりと砂のような感触が落ちた。
「——おっ、え゛っ」
吐き出そうとして、それが「灰」だと気づく。
生温かい。
まるで、さっきまで生きていた何かの体温が、まだ残っているみたいな——気味の悪い温もり。
(……まだ、温かい?)
一瞬だけ、風が止んだ。
灰だけが、音もなく降り続けている。
——そこへ、追い打ちのように。
鉄を舐めたような血の臭いと、焼き過ぎた肉みたいな香ばしさが、絡み合って鼻を刺した。
胃が、ぎゅっと縮む。
脳が「美味しそう」と誤認しかけて——
ぐぅ、と。
お腹が鳴った。
総毛立つ。
やめろ。
やめてくれ。
「なじみのある匂い」と、「なじみのない匂い」が混ざっている。
(……ひどい匂い。ちくしょう、なんだよ、ここ……)
ここは戦場……?
いや、それだけでは言い足りない。
あまりに生々しい「どこか」だ。
まるで、巨大な生き物の腹の中。
はらわたの中に押し込められ、今にも消化されそうな——そんな悪夢。
(確か、僕は——)
記憶をまさぐる。
(僕は……あれ? 僕は何をして……)
掴もうとすると、するりと逃げる感触。
直前までの記憶がごっそりと抜け落ちている。
……そんな馬鹿な。
(……ねえっ! みんな! これどうなってるの!?)
いつもなら「うるさい」と怒鳴りたくなるほど騒がしい連中が……沈黙していた。
ミネルヴァ?
ガンテツ?
ジュリア?
……どこ?
『愚かですわね』と淡々と罵倒する、ミネルヴァの冷えた声がない。
『カカカッ!』と豪快に笑う、ガンテツの暖かい振動がない。
『すごーい!』とはしゃぐ、ジュリアのくすぐったい気配がない。
助けてほしいときに限って——
返事が、ない。
頭の中が、真っ白な部屋になったみたいに静かだ。
(おいっ! 誰か返事してよ! 冗談でしょ!? 何があったのさ!!)
いくら心の中で叫んでも、誰も応えない。
いつもは我が物顔で土足のまま人の心を荒らすくせに……いざっていうときに、いなくなるなんて。
なんて使えない英雄らなんだ。
(ねえ、誰でもいいから……レクターでもいいからさ。ねえ、お願いだよ……)
苛立ちと不安が募る——はずだった。
けれど、それより先に猛烈な寂しさが全身を駆け抜け、肌が粟立つ。
(嫌だよ……一人にしないで……)
ふと、自分の体が震えていることに気づいた。
寒い。
灼熱の天気に、まるで似つかわしくない寒気。
理由は、すぐに分かった。
目の前に、ソレがいたからだ。
「この竜殺しの悪魔め。絶対に赦さん」
血走った紅い瞳。
怒りと憎悪だけで塗り潰された視線が、まっすぐに僕を射抜いている。
……なぜだ。
なぜ、僕をそんな目で見る。
まるでごみでも見るような……。
(や、やめろよ……!)
理不尽だ。
だって、僕は何もしてない。
するわけがない。
してない。
してないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてないしてない。
シテないシテないシてナイッ!
……してない。
——してない、よね?
なのになんだ、その目は。
憎しみを煮詰めたような侮蔑の瞳。
ふざけるな。
僕なわけがない。
(あ……もしかして僕以外に誰かいる……?)
すがるように、後ろをおそるおそる振り向く。
……誰もいない。
(クソッ!)
その確認のせいで、より絶望的な確信が刻まれる。
間違いなく、あの殺意は僕に向けられているのだと。
——ああっ、嫌だ。
怖い。
血の気が僕から逃げていくのを感じる。
これは、今までくぐってきた修羅場とは質が違う。
勝てるかどうかとか、どうでもいい。
生き延びられたら、それだけでいい。
目の前にいるのは、修羅場が人の形をして立っているだけの——災厄そのものだ。
できるなら、この場から今すぐにでも逃げたい。
でも——足が動かない。
金縛りじゃない。
まるで、別の誰かが「逃げるな」と足を縫い止めているみたいに。
こんなときに限って、誓いが邪魔をする。
(逃げたいけど……逃げないと約束したんだ! だから……クソッ!)
震える膝を、太股の上から拳で叩きつける。
鈍痛ごときじゃ、震えは止まらない。
(……クソクソクソッ!)
ひゅるっ。
風が頬をひと撫でする。
気配が濃くなるのを感じた。
「俺は……死ぬかもしれん。だがそれでも、命を賭して——」
深紅の目が、炎のように揺らぐ。
「貴様を打ち滅ぼす」
男が構えた矛を、一薙ぎする。
次の瞬間、風がギュワッと吠えた。
小さな竜巻のような旋風が生じ、煙を一気に切り裂く。
焦げ臭い空気が押し流され、鼓膜がびりりと震えた。
視界が、完全に開ける。
空が見えた。
焦げた匂いも、血の臭いも、一瞬だけ遠のいて——ただ、高い空がそこにあった。
雲のない、嘘みたいに青い空。
灰が、ゆっくりと舞い上がっていく。
風に乗って、どこまでも高く。
ああ、なんてことだ。
あまりにも。
……あまりにも。
——きれいだ。
そう思ったのは、ほんの一拍だけ。
目の前に——視線が吸い込まれる。
そこに広がっていた光景は……凄惨、という言葉ですら追いつかない。
あまりにも巨大すぎる肉体。
分厚すぎる翼。
……伝説の古代種。
ドラゴン。
だが、そのドラゴンたちが——
無残に、殺されている。
(な、なんで……?)
僕は現実逃避するように、そのドラゴンたちの成れ果てをゆっくりと目に焼き付けた。
ある個体は、胸から股下までを無造作に引き裂かれていた。
溢れ出た極彩色の臓腑が湯気を立てて泥濘に広がり、ピンク色の腸が、まるで祝祭のリボンみたいに不謹慎な鮮やかさで地面をのたうっている。
別の個体は、首を綺麗に刎ねられていた。
転がった巨大な頭部は、死んでいることすら気づいていないみたいな間抜けな表情で、虚空を睨みつけている。
焼けている個体もいた。
鱗は黒く炭化し、縁だけが溶け、焦げた部分と生の肉がまだらに混在している。
焼け焦げた翼の隣には、胴体に無数の穿孔が開き、内側から破壊されたかのように、肉と骨が潰れ込んでいた。
火で殺されたもの。
斬られたもの。
潰されたもの。
引き裂かれたもの。
死に方が……統一されていない。
何体あるのか分からない。
十体を超えたあたりで、数える虚しさに気づいた。
頭で理解して数秒後、ぞわぞわと嫌悪感が背骨を走る。
(……お、おかしい)
その気づきで、意識が現実に引き戻される。
「ちょっと待って! 僕じゃないんだ! これは、なんかの間違い——」
言葉が途切れる。
右手に違和感。冷たい感触。
そして、生暖かく、ぬめる感触。
おそるおそる視線を落とす。
血にまみれた剣を、僕の右手が強く握りしめていた。
握ったことなどないはずの形状が、恐ろしいほど手に馴染む。
刃の先に突き刺さっていたのは——巨大な眼球。
「ひぃっ!?」
ぬめっ。
「うわああぁっ!!」
喉が裂けるほどの悲鳴が出た。
「な、なんだ、これ……へ? ぼ、僕が……? ほ、ほんとに? い、いや……ちがう、ちがうちがうちがうっ!!」
右手を必死に振って、剣を投げ捨てようとする。
——否、投げ捨てられない。
投げ捨てたいのに、指が勝手に食い込む。
剣に執着するように、指が締まる。
視界が歪む。
胃がひっくり返る。
「あいつらだ! これは僕じゃない! 本当に、僕なんかじゃないんだって! た、頼む。助けてくれ!!」
これは僕じゃない。
——そんなことがあってはならない。
「黙れ」
短く、低い声。
「ここまでやっておいて、それはないだろう。すまんな。悪魔の戯言は聞かん方がええに決まっとる」
揺らがない瞳を見て、僕は確信した。
逃げる選択肢は……もう残されていない。
(……ヤバいっ! みんな、どこなの、ねえ、みんな! 嫌だ! 助けて!)
脳内にいくら声を響かせても、返ってくるのは静寂だけ。
代わりに——
「……へ?」
音が、ずれた。
喉の奥が、勝手に収縮する。
「へへ」
笑い声が聞こえた。
「へへへ、ふへ、くふっ」
空気が漏れる。
肺が勝手に動く。
熱い息が漏れる。
頬の筋肉がピクピクと痙攣し、限界まで引き攣る。
痛い。
顔が痛い。
心が痛い。
……笑っていたのは、僕だった。
やめろ。意味が分からない。笑うな。
命乞いをしろ。
もう、体が言うことをきかない。
「構えろ」
「いやだッ!!」
嫌。
なのに、口角が勝手に上がる。
頬の筋肉が、僕の意思を無視して歓喜の形に歪む。
僕は頬に食い込むように爪を立てた。
(止まってくれ……!)
だが、その願いも虚しく——
「クハ……」
口元が嗤った……。
「——ハハハハハハッ!!」
誰だ。これは誰だ。
僕じゃない。
僕なんかじゃないんだ。
これは僕の中に残っている——『ナニカ』の残滓だ。
「いやだッ。……嫌ぁ、だってこれじゃ……。いやだいやだいやだぁあああ!! む、無理だッ! 戦いだぐないッ!」
喉が潰れ、涙と唾液と嗚咽が混ざり、視界がぐらぐらと傾く。
三半規管が溶けたみたいに、足元が定まらない。
世界が、ゆっくり回り始める。
体と心が離れ離れになるみたいに、落ち着かない。
世界と、ゆっくり廻り始める。
魔力が底をつきかけて、苦しい。
……はずなのに。
身に覚えのない高揚感が、無理やり流し込まれてくる。
——気持ちいい。
え。
……気持ちいい?
僕が、そう感じてるの……か?
……なんで?
拒絶するほどに、愉悦と憎悪の濁流が心を侵していく。
その事実が、引き寄せてくる。
――全て、もう手遅れかもしれない、と。
「うぐっ……ぐ、う゛わあああああっ!!」
逃げたい恐怖と快楽による混乱で、泣き喚くことしかできない僕に——
「風塵の矛。アルベルト・ドラゴ、参る」
その声が、頭の奥に直接流し込まれた。
暖かくて、冷たい。
耳鳴りが走る。
視界が白く滲む。
立っている感覚すら、曖昧になる。
まるで脳を掴まれて、揺さぶられているみたいだった。
この感覚すら、自分のものかわからない。
いや、もうとっくに曖昧だったか。
身体の感覚が、ここにない。
淀みの中心で、その言葉だけがはっきり残った。
「殺す」
それは、僕に向けられた死刑宣告。
気づけば、僕は剣を気持ちよく握りしめ、構えていた。
ああっ。
嫌だ。
助けて。
戦いたくない。
死にたくない。
——ミルクが飲みたい。




