第1話:涙のヨーグルト
値段が高くとも、学園の近くに宿を取るべきだった。
中心街から三十五キロも離れた小さな町なんかに、泊まるべきじゃなかった。
ケチりどころを、完全に間違えた。
今なら、はっきりそう言える。
なぜなら――朝からこんな必死こいて走る必要なんて、本来どこにもなかったはずだからだ。
「……もうっ! なんでこうなるのさっ!」
『「慢心」とは、まさしくご主人様のために誂えられた言葉ですわね』
淡々としているくせに、やたら棘のある涼やかな声が脳内で木霊する。
脳みそのシワを、冷たいガラス細工で直になぞられるみたいな感覚。
僕の脳内に住まうエルフのメイド――ミネルヴァの声だ。
(あはは……いや、確かにゆっくりヨーグルトとシリアル食べてたけどさ! でも、優雅な朝って大事じゃない? 第一印象は朝の余裕で決まるって言うし!)
白い陶器に盛られたシリアルはほどよく甘く、自家製ヨーグルトは呆れるほど濃厚だった。
口いっぱいに幸せを頬張りながら、窓から差し込む朝日を浴びる。
そして「これから始まる新生活」に思いを馳せる――。
完璧な新入生ムーブ。
そう、あのときの僕は本気でそう思っていた。
――なのに、現実はどうだ。
全力疾走である。
革靴の底が、悲鳴みたいな音を立ててアスファルトを噛む。
ダンッ! ダンッ!
一歩踏み込むたびに、景色がゴワッと後ろへ弾け飛んだ。
(なんだこれ、走りやすっ!)
実家の牧草地なら、踏み込んだ足は泥と糞に埋まり、力の半分は地面に吸われていた。
でも、この街の地面は格が違う。
蹴った衝撃を、そのまま倍にして返してくるみたいな高反発。
まるで地面のほうから「もっと行け」と背中を押してくるみたいだった。
(都会の道路、親切すぎてズルくない!?)
――だが、親切なのは地面だけだった。
「おっと! 危なっ!」
角から飛び出してくる、大きな荷台を引いた行商人。
道のど真ん中で立ち話している、鎧姿の冒険者たち。
人が多い。
多すぎる。
酔いそうだ。
田舎道なら、障害物なんて寝そべった牛さんがのほほんとしてるくらいのものだ。
直進フルスロットルで駆け抜けられる。
でも、ここではそうもいかない。
ぶつかれば大事故だ。
洒落にならない。
だから、加速しかけた体を無理やりねじり、急ブレーキをかけ、また踏み込む。
キュッ、ダッ、ガッ!
このストップ&ゴーが一番きつい。
無駄に走りやすい道路と、人の多さ。
ふくらはぎが熱を持って軋み、喉の奥が鉄の味に染まる。
優雅なヨーグルトが、胃の中でシェイクになりそうだ。
そして――次の角を曲がった、瞬間だった。
朱色が、視界の端を掠めた。
道の脇に建つ、小さな鳥居。
その前に、人がいた。
濃紺と白の、真新しい制服。
背筋のまっすぐ伸びた、黒髪の女の子。
半歩後ろには、燕尾服の老紳士が影のように控えている。
参拝帰り、だろうか。
女の子の手元で、お守りらしき小さな袋が揺れて――
(って、見てる場合じゃない! 止まれないっ!!)
急ブレーキは、間に合わない。
左右は荷台と人垣で、完全に塞がっている。
考えるより先に、体が答えを出していた。
牛の突進と、同じだ。
横に逃げられないなら――上に逃げる。
踏み込みの力を、全部、真上へ。
ダンッ!!
石畳を蹴った反動で、体がふわりと浮き上がる。
無駄に走りやすい都会の道路が、最後の最後で、いい仕事をした。
「あ、ごめんなさい」
女の子の頭上を、ゆっくり通過しながら両手を合わせて謝る。
見開かれた瞳と、目が合った。
綺麗すぎる――琥珀色だ。
朝日を透かした、上澄みの蜂蜜みたいな。
搾りたてのミルクに一匙垂らしたら、きっと世界一の朝食になる色。
「な、何よあなた……!」
凛とした声が耳を掠めたときには、もう着地していた。
振り返る余裕はない。
(ごめん! 本当にごめんっ!)
心の中でもう一度だけ謝って、僕は再び全力で駆け出した。
『……おや』
氷のような呟きが、聞こえた気がした。
けれど、それどころじゃない。込み上げる、微かな吐き気。
案の定、ヨーグルトと朝食が胃の中でシェイクされる。
――もっと早く宿を出なかったことを、やっぱり後悔した。
『牛離れできん小僧が悪いのう。村が恋しくて、匙が止まっておったわい』
(あ、あれは! 匙の方がむしろ唇を恋しがってたんだよ……!)
追い打ちをかけるような、鉄を打つハンマーみたいに重たい声。
頭蓋骨が内側から震えて、奥歯がガチガチ鳴りそうになる。
伝説の鍛冶職人、ガンテツの爺さんだ。
脳裏に浮かぶのは、炉の赤をそのまま人の形にしたようなドワーフ。
背丈は低い。なのに、胴回りと肩幅だけが樽みたいに分厚い。
煤けた編み髭の隙間からは、鉄屑みたいにぎらつく眼が覗く。
節くれ立った拳は、ハンマーみたいだ。
(牛離れかぁ……)
ガンテツに言われたことを、僕は強く否定できない。
というのも、優雅な朝を気取ろうとしたくせに、結局のところ僕は、自家製ヨーグルトを泣きながら食べていただけだからだ。
あれは、僕にとっての「別れの儀式」だった。
適当に済ませられるわけがない。
適当に済ませたくもない。
だって今日からはもう、あの温かい味と匂いに、毎朝会うことは叶わないのだから……。
『アハハ! ホノちゃんの嗚咽、すごかったよ! わんわん泣いてて、子犬みたいで可愛かったね!』
鈴を転がすような笑い声が、追い風みたいに耳元で跳ねた。
鼓膜の裏側を猫じゃらしで撫でられたみたいに、くすぐったくて落ち着かない。
この声は、シノビの英雄、ジュリアだ。
クノイチってやつらしいけど、その正体を僕はよく知らない。
黒髪は高く結われ、ひと房だけ結ばれた赤い紐が風に揺れている。
ぴたりとした装いの上に薄い帷子を羽織っていて、動くたびに布の形が音もなく変わる。
笑っているのに、目だけが鋭い。
そのくせ次の瞬間には、するりと距離を詰めてきそうな軽さがあった。
さっきの発言。
ジュリアに悪気がないのはわかっている。
朝のことを思い出すだけで、今でも余裕で泣ける自信がある。
だが、感傷に浸っている猶予はない。
今の僕は、人生の瀬戸際に立っている。
視界の端に見える停留所が、絶望的に遠く感じる。
「ま、間に合え……っ!」
そのときだった。
見慣れない光景に、一瞬、呼吸が止まりそうになる。
「……浮いてる?」
視界の先。
停留所に鎮座しているはずの“それ”が、地面から数十センチ、完全に宙へ浮かび上がっていた。
(す……すごぉ~~っ!)
感心しつつも、残りはあと十メートルほど。
僕は一息に駆け込み、なんとか停留所へたどり着いた。
運転席の窓から覗く初老の男と、目が合う。
ハンドルを握る手の皺を見て、少しだけ安心した。
「少年、新入生だな。名前は?」
「えーと、鴨葱焔乃士です!」
「はいはい、カモネギホノジくんね。いたいた、名簿にいるな……っと。その顔を見るに、魔導バスは初めてか?」
「は、はい……!」
まだバスはここにある。
駆動音も落ち着いている。
(よかった~。なんとか間に合ったっぽいな)
全身の力が抜けかけた僕に、おじさんが顎をしゃくった。
「少年、魔導バスに感心してるのはわかるが、後がつっかえるかもしれねえ。固まっとらんで、さっさと乗りな」
僕は転がり込むように車内へ乗り込み、できるだけ奥にある空席へ身を投げた。
柔らかな革張りの座面が僕を迎え入れる。
その瞬間、足元の床板から微かな熱が伝わってきた。
激しい鼓動が、ようやく静まりかける。
――そのとき、違和感に気づいた。
車内にいるのは、数人の生徒だけだ。
今日は入学の日だ。
満席どころか、積み残しが出てもおかしくないはずなのに。
僕はすっと立ち上がると、おじさんの斜め後ろまで移動した。
「おじさん」
「ひょぉっ!? ……い、いきなり声かけてビビらせんじゃねえっ!?」
「あの。人数、これで全員ですか……?」
「あー? 全然足りねえよ。これから山ほど乗ってくるさ」
「……えぇ~っ!? でも出発時間、過ぎてませんかっ!?」
「何で俺が文句を言われとるのかは知らんが……出発まで、まだ一時間はあるぞ」
言葉の意味を咀嚼する。
少しずつ消化して――最悪の確信が、脳を焼いた。




