第31話「約束」
侍女さんの案内で、王城の長い廊下を母さんと並んで歩いている。
石造りの床は磨き上げられていて、コツコツという足音がやけに響く。
前を歩く侍女さんの背中を見つめる。背格好が似ていて、同じ侍女服だからそう見えるだけかもしれないけど、あの時、私に手紙を渡してくれた人なんじゃないかな。
侍女さんと母さんが立ち止まった。
重厚な彫刻が施された木扉の前だ。ここなのかな。
「…母さん、ここは?」
小声で尋ねると、母さんは懐かしむように、でもどこか寂しげに扉を見上げていた。
「あなたと父さんと私が、少しの間だけ暮らしていた部屋よ…」
ここが。
私の記憶にはない場所。でも、私が産まれて、父さんがいて、家族三人で過ごした場所。
胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚を覚える。
王城のきらびやかな装飾よりも、この扉の傷一つの方が、私には重く感じられた。
侍女さんがノックすると、中から落ち着いた女性の声が聞こえた。
「どうぞ」
たぶん、王太后様だ。
侍女さんが扉を開け、私たちに一礼して下がる。
母さんが先に足を踏み入れ、私も慌ててその後に続いた。
部屋の中は、驚くほど「普通の家」のような空気が流れていた。
もちろん家具調度は豪華だし、部屋も広い。けれど、王城特有の冷たさがない。誰かが大切に守ってきた、温かい空気がそこにはあった。
部屋の中央にある応接セットには、三人の人物が待っていた。
中央に座る、金色の髪を美しく結い上げた女性。エレオノーラ王太后様。
その隣に立つ、マクシミリアン公爵閣下。
そして、対面のソファーにちょこんと座る、金色の髪の少女。女王オーレリア陛下。
私たちが部屋に入ると、三人の視線が一斉に注がれた。
「アリス…よく戻ってきてくれました」
王太后様が立ち上がり、ゆっくりと歩み寄ってくる。
母さんはその場に片膝をつこうとしたけれど、王太后様がそれを手で制した。そして、そのまま母さんを抱きしめた。
「エレオノーラ様…ご無沙汰しております。でも、今の私はベアトリスです。ベアトリスとお呼びください。」
「そうね…そうだったわね…ごめんなさい…」
王太后様の目元が潤んでいるのが見えた。
父さんのいとこにあたる人。私にとっては、叔母様のような、少し遠いけれど確かな血縁の人。
母さんの背中に回されたその手は、震えていた。
公爵閣下が、咳払いをして空気を変えた。
「湿っぽいのは後だ。…よく来たな、リーシャ」
マクシミリアン公爵閣下。
中肉中背で、ニコニコと穏やかな笑みを浮かべているけれど、その双眸には射抜くような鋭い光が宿っている。ただの好々爺じゃない。父さんの伯父さんにあたる、この国で一番の実力者だ。
「は、はい!お久しぶりです、公爵閣下!」
私は反射的に背筋を伸ばして直立不動になる。
その様子を見て、緊張していたオーレリア陛下の表情が少しだけ緩んだのが分かった。
「そこに座りなさい。茶を用意させよう」
公爵閣下に促され、私と母さんはオーレリア陛下の隣のソファーに座った。
向かいには王太后様と公爵閣下。
すごい面子だ。胃が痛くなりそう。
「さて…」
お茶が運ばれ、人払いが済んだ後、公爵閣下が口を開いた。
「ポゾスから聞いた。『返事』をしに来たと」
穏やかな声色だった。
そこには、国軍最高司令官としての威圧感はない。ただ、親族の訪問を待っていた老人の顔があった。
母さんが居住まいを正し、真っ直ぐに王太后様を見つめた。
「はい。エレオノーラ様から頂いたお手紙、拝読いたしました」
母さんの声は静かだったけれど、芯が通っていた。
「オーレリア陛下をお守りするために、力を貸してほしいと」
「…ええ。虫のいい願いだということは分かっています。本来、あなたたちにすがるのは筋違いだとも理解しています…」
王太后様が痛ましげに目を伏せる。
けれど、母さんは首を横に振った。
「いいえ。あの時、私たちを守ってくださったこと、感謝しております。…そして、そのご恩をお返ししたいと、心から思いました」
母さんは一度言葉を切り、寂しげに微笑んだ。
「ですが、私はもうミディではありません。リーシャが産まれたあの日、エメルとの契約は白紙に戻りました。今の私には、シヴァルリィを動かすことも、皆様を守る盾になることもできません」
「分かっています、ベアトリス。それでも…」
「はい」
母さんは、私の手をそっと握った。
「私が剣を取ることはできません。ですが、私が命を懸けて育てた、一番大切な宝物がここにいます。私の『返事』は、この子です」
母さんの言葉に、三人の視線が私に集まる。
私は緊張で喉が鳴ったけれど、母さんの手の温かさに勇気をもらい、顔を上げた。
公爵閣下が、静かに私に問いかける。
「リーシャ。ベアトリスの気持ちは分かった。だが、お前はどうだ?」
「え?」
「わしは、お前に『行け』とは言わん。アルトリーベに行くも、ミラボーに帰るも、お前の自由だ。…お前には、お前の人生がある」
公爵閣下の瞳は、どこまでも優しかった。
あ、そっか。
この人は、私の父さんの伯父さんなんだよね。
ただ、心配してくれているんだ。
私は膝の上で拳を握りしめ、自分の言葉を探した。
「正直に言います。私、ここに来るまで、アルトリーベ侯爵領に行かなきゃいけない理由が、自分の中で見つからなかったんです」
「ほう?」
「ミラボーは、私が生まれ育った街です。母さんがいて、友達がいて、お世話になった人たちがいる。だから守りたいと思いました。身体が勝手に動きました。でも…」
私は言葉を選ぶ。不敬かもしれない。でも、嘘はつきたくない。
「アルトリーベには、私の知っている人はいません。もちろん、そこに住む人たちがガルドラムに襲われるのが嫌だというのは分かります。でも…『可哀想だから助ける』とか『命令だから行く』っていう、その程度の気持ちで、命のやり取りをする戦場に立っていいのか、分からなかったんです」
戦場は怖い。
あの襲撃の日、私は震えた。
シヴァルリィの装甲を切り裂く衝撃、焦げた匂い、殺意の塊のような敵の思念。
生半可な覚悟で行けば、死ぬ。あるいは、仲間を死なせる。
それが分かるからこそ、私は動けなかった。
「だから、ここに来ました。自分が何のために戦うのか、それを確かめるために」
一気にまくしたててから、私は顔を上げた。
公爵閣下は、懐かしそうに目を細めていた。
「ふん…ギリクと同じことを言う」
「え?」
「あいつもそうだった。『俺は世界を救うなんて大それたことはできねぇ。だが、手の届く範囲の愛する奴らのためなら、この命を燃やし尽くせる』とな。…それでこそ、あやつの娘だ」
父さんの名前が出て、ドキリとする。
王太后様が、優しく微笑んで引き取った。
「リーシャ。ベアトリスから聞いたでしょう?ギリクは、私の父の弟の子供…本来ならば公爵家の血筋でありながら、認知もされぬ日陰の身でした」
「はい…母さんから聞きました」
「彼は、その生まれを恨むことも、地位を望むこともしませんでした。彼が望んだのは、ただの『技師』として、『整備士』として、ベアトリスと、そして貴方と共に生きる幸せだけでした」
王太后様の言葉が、すとんと胸に落ちる。
父さんは…ただ、一番大切な「核」である家族を守るために、その腕一本で生きる道を選んだのだ。
「オーレリア」
突然、王太后様が隣の少女に声をかけた。
オーレリア陛下が、ビクリと肩を震わせる。
「はい、お母様」
「貴方からも、話しなさい」
オーレリア陛下は、躊躇うように視線を泳がせ、それから意を決したように私の方を向いた。
その瞳は、綺麗な碧色で、でもどこか不安に揺れていた。
「…リーシャ、さん」
「はい」
「私は…女王です。この国全ての民を守る義務があります。でも…」
彼女の声は、微かに震えていた。
十二歳。私より二つも年下だ。
まだ学院に通って、友達と恋の話や服の話をしていてもおかしくない年齢。
なのに、彼女の細い肩には、この国の命運が乗っている。
「本当は、怖いのです」
ぽつりと、本音がこぼれ落ちた。
「周りにいるのは、大人たちばかり。誰もが『陛下』と呼び、崇め、あるいは利用しようとします。心を許せる友達はいません。甘えられる家族も…お母様とお爺様以外にはいません」
彼女は小さな手を、自身の膝の上で強く握りしめていた。
白くなるほどに。
「アルトリーベが攻められれば、次は王都です。私が殺されるかもしれない。国が滅びるかもしれない。…夜、一人で眠るのが怖いのです。ガルドラムの影が、すぐそこまで来ているようで…」
それは、女王の言葉ではなかった。
ただの、怯える少女の言葉だった。
私は、ハッとした。
国を守る、なんて大きな言葉で考えるから分からなくなるんだ。
国って何だ?
土地? 建物? 法律?
違う。
国っていうのは、人が生きている場所だ。
母さんがいて、エミリアがいて、おっちゃんがいて、そして…この震える小さな女の子がいる場所だ。
そして、目の前の少女は、私の「はとこ」だ。
母さんから聞いた。父さんとエレオノーラ様がいとこ同士だと。
なら、私と、この子は、血の繋がった親戚だ。
もし、父さんが生きていたら、私たちはもっと普通に出会って、姉妹のように遊んでいたかもしれない。
気づけば、私はソファーから身を乗り出し、オーレリア陛下の冷たくなった手を両手で包み込んでいた。
「…っ、リーシャさん?」
「ごめんなさい、陛下。不敬かもしれないけど、させてください」
その手は小さくて、頼りなくて、冷たかった。
ああ、なんだ。
理由なんて、これで十分じゃないか。
「私、難しいことは分かりません。貴族の義務とか、国の威信とか、そういうのは偉い人たちが考えればいいです」
私は真っ直ぐに、彼女の碧い瞳を見つめた。
「でも、親戚の女の子が、怖くて夜も眠れないなんて言ってるのを、放っておくほど薄情じゃありません」
「え…」
「陛下。…ううん、オーレリアちゃん」
公爵閣下がピクリと眉を動かした気配がしたけど、無視した。
「私は、貴女を守ります。国のためじゃなく、女王陛下という立場のためでもなく、ただのオーレリアちゃんが、安心して眠れるように。明日、笑って過ごせるように。そのために、私は戦います」
自分の中で、カチリと音がした気がした。
バラバラだった歯車が噛み合い、スムーズに動き出した音。
技師として、一番気持ちいい瞬間。
迷いは、消えていた。
オーレリアちゃんの瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
「…ほんとう、ですか…?」
「本当です。私、嘘はつきません。技師の娘ですから、約束した納期と品質は守ります」
変な例えに、オーレリアちゃんが泣き笑いのような顔をする。
それを見て、母さんが優しく微笑み、王太后様が目頭を押さえた。
公爵閣下だけは、深く息を吐き、そして優しく笑った。
「そうか。…ギリクの娘だな、お前は」
そう言う口調は、完全に「親戚のおじいちゃん」のものだった。
「リーシャ。孫を、頼めるか?」
「はい。任せてください」
私が力強く頷くと、オーレリアちゃんが、涙を拭って私を見上げた。
少し頬を赤らめて、もじもじとしている。
「あの…リーシャさん」
「はい?」
「その…二人だけの時だけでいいのです。その…」
彼女は一度深呼吸をして、小さな声で言った。
「『お姉さま』と、お呼びしてもいいですか?」
お姉さま。
その響きに、私の胸が高鳴った。
私には兄弟がいない。ずっと一人っ子だった。
だから、「姉」と呼ばれることに、ずっと憧れがあったのだ。
「も、もちろん!むしろ!呼んで!すっごく嬉しい!」
私が身を乗り出して言うと、オーレリアちゃん…ううん、妹のオーレリアが、花が咲いたような笑顔を見せた。
「はい!お姉さま!」
その笑顔を見た瞬間、私は確信した。
この笑顔を曇らせる奴は、私が許さない。
ガルドラムだろうがなんだろうが、私が叩き潰してやる。
そうか。これが「守りたい」という気持ちなんだ。
ミラボーを守った時は、必死すぎて分からなかった。
でも今は、はっきりと形を持って胸にある。
「さて、名残惜しいが…」
公爵閣下がゆっくりと立ち上がる。
「そろそろ行かねばならんだろう。エミリアという友人が待っているのだろう?」
「はい!…では、行ってきます!」
私は立ち上がり、元気よく挨拶をした。
敬礼なんて堅苦しいものじゃない。ただの「行ってきます」だ。
「ベアトリス。…すまんな」
「いいえ。…この子たちが選ぶ未来を、どうか見守っていてください」
母さんが深く一礼する。その頭を見ながら公爵が小声でささやいた。
「シルファリオン・カレスティア。封印を解くべきだろうか…」
母さんが、はっと顔を上げた。
「…いえ、まだ、その時ではないでしょう。慎重に扱うべきです」
「そうか、では、あの機体は封印したままにする。アリス、君に任せてよいか?」
「はい」
「ありがとう。正直、ここに安置しているとはいえ、扱いには困っているのだ。あと、それから、今後私たちに連絡をしたい場合は、直接通信してもかまわん。通信士には「ベアトリス」の名を伝えておく」
「わかりました」
…全部聞こえちゃったけど、聞いてて良かったのかな…うん、忘れよう…
部屋を出る時、私は一度だけ振り返った。
オーレリアが、名残惜しそうに手を振っていた。
私も小さく手を振り返す。
「行ってきます、オーレリア」
「行ってらっしゃいませ、お姉さま!どうか、ご無事で!」
その声を背中に受け、私は扉を出た。
廊下を歩く足取りは、来る時よりもずっと軽かった。
迷いという重石が取れたからだ。
母さんが隣で微笑む。
「リーシャ、いい顔してるわね」
「そうかな?…うん、そうかも」
私は自分の手を見つめる。
工房の手伝いで汚れが染み込んだ指先。
この手は、何かを壊すためじゃなく、何かを直すため、守るためにある。
ヴェリアルは兵器だ。でも、私が乗れば、それは「守るための盾」になり「道を切り開く剣」にもなる。
「行こう母さん!エミリアとセラフィが待ってる!」
「ええ、行きましょう!」
私たちは駆け出した。
目指すは技術院の格納庫。そして、その先にある北の戦場。
待ってろ、ガルドラム。
私の可愛い妹の安眠を妨害する奴は、シヴァルリィの錆にしてやる!
私の心の中で、心が高らかな咆哮を上げていた。




