いつもの有り様
評価・リアクション・感想・ブックマーク等ありがとうございます。
今回も中々に文章が酷いと思いますが、作者の中では多少マシになりました。
◾︎相模国玉縄城
「うむ……」
思わぬ内容に、読んでいた書状が手からこぼれ落ちる。
婚儀の合間にも逐一報告は受けていたが、結果は想像の1歩2歩先を行く。
今回、四郎の婚儀に参加するため俺が三島に向かうという情報を房総三国に流しておいた。
万が一にも、こちらの水軍が房総半島に攻め込むと悟らせないためだ。
そもそも鎌倉御所と房総勢力は敵対していないので、撹乱を意図した情報を流す必要性は薄い。
しかし、奇襲であること、また鎌倉御所の俺が不在の状況での戦であること、この2点を周囲にアピールすることでこの戦の本来の目的を曖昧にする。
この企みは成功したと言えよう。
書状によると、俺の小田原出発と同日にそれぞれ横須賀・品川を出陣した鈴木兵庫助・伊東九郎三郎は、兵庫助が木更津湊、九郎三郎が館山に攻撃を仕掛ける形で房総勢力と開戦した。
こちらは竜骨船を保持している。
近付いてきた船には上から焙烙玉を投げ入れることで沈め、海岸線で敵が待ち構えれば大筒を打ち込み追い払う。
そうなると敵は逃げるしかない。
一部果敢に打って出てきた集団がいたらしいが、何もさせないまま殲滅したそう。
故に兵庫助・九郎三郎はともに簡単に上陸に成功した。
上陸した彼らは周囲に従属・臣従の文をばら撒きながら進軍。
木更津に上陸した兵庫助が北から安房に圧力をかけ、館山に上陸した九郎三郎は制圧をそこそこに海路を勝浦へ。
その勝浦を楽々と制したことで安房国は孤立した。
これはタイミングが良かったと言えよう。
この時期の安房国はちょうど里見家の下に纏まりかけていた頃だった。
先代古河公方足利成氏の下、里見家先代当主義実が安房国に入り、享徳の乱の隙に地盤を築き、有力豪族を降し、最終的に義実の嫡男で現当主義通が安房国を統一する。
今はちょうど最後の工程が行われており、里見に従うのを良しとしない豪族がごまんといる。
突きがいのある柔らかい地盤を前に、そんな魅力的な物を突くことを止めることができる者なんてこの世に存在しないだろう。
故に書状の本題、そして俺が唖然とした原因、“安房国の制圧”に繋がる。
兵5000しか連れていないのに良くやったと思う。
焙烙玉にしろ、大筒にしろ、こちらが敵にとって未知の兵器を使ったとはいえ、こうも一方的だと安房国制圧が事実なのかと疑問に感じてしまうが。
書状では、統治のために奉行衆を送ってくれと締め括られていた。
となれば安房国制圧には成功したのは事実と考えてよいのだろう。
とりあえず、奉行衆は送る手配をしよう。
遅れてはせっかく得た領地を無意味のうちに失ってしまう可能性もある。
「……同行している奉行衆を集めよ」
傍に控えていた小姓に命を出すと再び書状に視線を落とす。
書状にはもう1つ書かれていることがある。敵勢力の身柄だ。
里見家当主里見民部大輔義通はじめ、多くの里見一族や里見家重臣、安房国人衆はそのほとんどを捕らえたらしい。
その中には、まだ生まれていないようだが後の戦国大名里見義堯の父実堯もいる。
史実でのこの後の里見家は、義通の子義豊の代にその従兄弟である義堯が嫡流を乗っ取り、この里見義堯によって上総下総に勢力を拡大する戦国大名里見家が誕生する。
これからの里見家当主、義通・義豊・義堯・義弘、この中の誰が用いたのか不明だが、里見家には“関東副将軍”の称号があった。
副将軍を名乗るきっかけだと思われるのが小弓公方足利義明の誕生。
小弓公方足利義明が国府台合戦で討死するのが北条氏康の元服後。
その父氏綱が今14歳、氏康が50代で1570年頃に亡くなることから逆算すると、氏康の生年はおよそ1515年前後。
そうであるならば、氏康の元服年齢を15歳と仮定すると義明の討死は1530年代となる。
その頃には義明に元服した嫡男がいたことを考えると、義明の小弓御所に入りは1520年前後と推定できる。今から20年後のことになる。
現当主義通には数え4歳の嫡男がいるらしい。
つまり、没年や次代への相続時期は不明ながら、義通にも関東副将軍を名乗る可能性があるのだ。
したがって、里見家はね……
関東の戦乱の合間を縫って上総下総に進出。水軍を持つために東京湾の制海権をも脅かしてくる。
後方に居てもらっては困るんだよね。
彼らの身柄を如何するか、悩みどころだ。
今話の関東副将軍は里見義通が棟札に足利政氏の武運長久を祈願した時に副帥と記載したことが元ネタ
これからも引き続き頑張りますので、今後ともよろしくお願いいたします。




