8
聖女という存在。あるじ様の共犯者となったわたしが、その帰還方法を聞いたとき、はじめに思ったのは、簡単すぎる、ということだった。
あるじ様自身もそう言っていた。
それにしても――。
召喚には、命という代償を求めた存在が、血の一滴だけで、聖女を帰す?
わたしはあるじ様を信用している。信頼している。
けれども、その優しさ故に、わたしに何かを隠すことがあることも、知っている。
臣下とは、主の手足。主が臣下に、すべてを教える義務などないことも知っている。
幸い、わたしはあるじ様の側近として認知されていた。
だから、調べることができた。
あるじ様の祖先が行ったように、彼らの神を喚ぶことができた。
――わたしはガーウィン公爵家の、契約の神に、尋ねた。
あるじ様がわたしに言った聖女様の帰還の方法は、正確ではなかった。
一部は合い、一部は違う。
聖女様が召喚された時点で、異世界との道というものは、開き続けている。
ただ、人間の目には見えなくなっているだけ。神には見えている。
必要なのは、人間にも道を見えるようにすること。
道が見える条件の一つは、召喚されたのと同じ日付であること。だから帰還の儀式が行えるのは、一年に一度だけ。時刻は関係ない。
そして――命だ。
喚ぶのに必要なのだから、帰すのにも必要に決まっている。
……誰の?
契約の血筋の。
あるじ様の。
わたしは、重ねて神に尋ねた。
他の誰かではいけないのか? それなら、わたしが何人だって見繕ってみせる。
何人だって、何十人だって。
――すると神は、わたしの命を所望した。
わたしが命を捧げれば、あるじ様は、助かる。
喜んでわたしは応じた。
わたしの命は、リンカの帰還の際に、捧げられることになった。
わたしはあるじ様を、来たるべき日まで、騙すことになった。
けれど――あるじ様も、重要なことをわたしに隠していたのだから、お互い様だ。
それに、主を救うのは、臣下として当然のこと。
これから――わたしの魂はどこに行くのだろう。
死後の世界なんて、あるのだろうか。
そこはやはり、苦しい場所だろうか。
汚れきった、わたしに、ふさわしい場所だろうか。
「…………?」
瞼が、震える。
わたしは、何度も瞬きした。天井が見えた。……天井?
誰かが、見下ろしている。
「あれで、お前は満足だったのか」
聞き間違えるはずがなかった。あるじ様の声だ。困惑する。その声音は冷たく、抑えた激しい怒りを含んでいた。
「…………?」
わたしは上半身を起こした。目が見える。身体も動く。どうやら、寝台に横たわっていたようだ。見知った調度品がある。……ガーウィン公爵家の本邸。あるじ様の部屋だった。
そしてやはり、寝台の側で、わたしを見下ろしていたのは、あるじ様だった。
混乱する頭で、質問の意味を考えてみる。
わたしが死ぬ――死んだはすだ――直前までのことだろう。
満足?
聖女様――リンカを故郷へ帰した。そうすることで、リオルナーに復讐した。殺すのではない。生きてこそだ。生きながらして……生きているからこそ、リオルナーは苦しみを味わう。
何より――あるじ様の命が失われることもなかった。
満足だったか?
あるじ様の忠実な臣下として、答えは決まっている。
もちろん、満足だ。
「はい」
わたしは、答えた。
「お前の命が、喪われてもか」
「はい」
あるじ様が生きているなら、それでいい。
「――お前は、俺を殺す気か!」
わたしは大きく目を見開いた。あるじ様が、わたしを強く抱きしめたからだ。
「……あるじ様?」
「その呼び方は止めろ」
「ですが……」
あるじ様の身体は、あたたかい。あたたかくて、居心地が悪い。逃げ出したくなる。もがいたが、拘束する力が強くなっただけだった。
「お前は俺をフリードと呼んでいたはすだ」
「それは……」
口ごもる。あの山小屋では、何もしらなかったから。
知った後も、側に居続けるためには。
「俺が死ねば、お前も死ぬんだろう」
「……はい」
かつて、わたしは確かに、そう言った。
「それは、お前が死ねば、俺も死ぬということだ。一方通行ではないんだ……! 覚えておけ」
――本当に、お前は、俺の予想しなかったことばかりをする。
あるじ様……フリードが呟いた。
「だって、フリードは、生きたかったんでしょう? リンカを帰したら……」
あのままわたしが何もせずにいたら、リンカが帰った後、フリードが命を落としていたはずだ。そんなこと、あっていいはずがない。
「そうじゃない。代償は、アレが気まぐれに決めている。お前には俺の命が必要だと言い、俺には……」
「一滴の、血だと」
「それも、違う。一滴の血でも、俺の命でもない。もっと別のものだった」
「別の……」
「知らなくていい。――何であろうと、お前の命以外なら、俺は代償などなんでも良かったんだ。だが、だからこそ、アレは、お前には、お前の命を捧げろと言ったんだろうな」
フリードが、苦く、笑った気配がした。
沈黙が落ちた。
わたしは身体の力を抜き、フリードの胸に頭を預けた。鼓動の音がする。
フリードは生きている。
わたしも、生きている。
「わたしが、生きているのは……」
「お前を遺跡から連れ帰って、アレと、契約をし直した。俺の命も、お前の命も半分になった。その上、アレの手の内だ。……逃れられない。俺はわかっていて契約した。だが、セルマ、お前は、ここで命を永らえたことを後悔する日が、来るかもしれない。――いや、するだろう」
間が空いた。
「……俺を、恨むか?」
わたしはフリードに抱かれたまま、小さくかぶりを振った。
「まさか」
臣下としてのわたしは、見返りなど求めない。むしろ、危険を冒しわたしを助けたフリードを間違っていると諫めるべきだった。
でも、出来なかった。
浅ましくも、喜んでしまったわたしがいる。
フリードが、自分の命を半分、捨ててくれたことを。
――本当は。
ただの、わたしは、フリードと、もっと一緒に、いたかったのだから。
「ごめんなさい」
こんなわたしで、ごめんなさい。
それから。
少し躊躇って、自分から、
「ありがとう、フリード」
フリードの背中に、手を回した。
リンカが帰還し、国に激震が走った日から、数日が経過した。
わたしはいまも、たった一人の主に仕えている。
けれども、主――ガーウィン公爵、フリード・エルレーという人を、再びフリードと呼ぶようになった。
聖女の帰還に関わったとしてフリードとわたしは近く、査問のために登城することになっている。
リオルナーは国中から同情を集め、聖女様を呼び戻そうとする気運すら高まっていた。
対し、ガーウィン公爵と言えば、もはや悪の中の悪。悪の代名詞だ。
――ただし、査問にも、そのことに対しても、恐れはなかった。
現在、国王に実質の権力はなく、国政に強く関与しているのは、王妃と王弟。王弟はフリードに味方し、王弟派の足並みは揃っている。問題は王妃と王妃派。そちらのほうも、王妃派の切り崩しに成功していた。何より――国は、聖女を召喚することのできるガーウィン公爵家を失えない。
あらかじめ、結末の決まっている査問だった。
「失礼いたします」
わたしはフリードの執務室を訪れていた。王弟派に属する貴族から、ある提案を受けていたからだ。それについては、わたしの一存では決められない。彼の意見を聞く必要があった。
「あるじ様。少し宜しいでしょうか」
フリードは嫌そうな顔をした。
「セルマ。二人きりだ」
「……フリード」
宜しい、とでもいうように、フリードが頷く。でも、何故フリードがそんなにも「あるじ様」と呼ばれるのを嫌うのか、よくわからない。いまだ、わたしには「あるじ様」のほうが馴染みがある。
「少し、フリードに確認しておきたいことがあるの」
「確認?」
「火傷の跡を、治したほうがいい?」
王弟派の貴族から言われた言葉を思い返す。
――お前がガーウィン公爵の懐刀だということはわかっている。裏で働く分には問題もなかったろう。しかし、表では……。その醜さはどうにかならぬのか? 見苦しい。お前も登城すると聞いた。陛下や殿下の御前にあがるのだぞ? ガーウィン公爵家には神治師がいるだろうに……。恐れ多いというなら、わたしが公爵に口添えしてやろう。いいか。その火傷の跡をどうにかするのだ。……まったく、ガーウィン公爵も、何を考えてこのような様を放置しておくのか……。表向き、どうせそばに置くなら、もっと美しく、地位のある娘がいくらでも……。
火傷の跡を治す。
考えたこともなかった。
隠そうとも、してこなかった。それが許されていた。傷跡を隠せ、とフリードがわたしに命じたことはなかったから。
「誰に言われた?」
眉間に皺を寄せフリードが問う。
わたしは、それには答えず、顔の左側に触れた。額から鼻にかけて、醜い火傷の跡がある。
火を近づけて、何度も躊躇いながら、自分で焼いた、その証。
「フリードは、治したほうがいい?」
「――お前が治したいなら、そうすればいい。神治師には命じておこう」
本来なら、奇跡でも起きない限り、わたしには決して受けることのできなかった治療。……それを受けられる。有り難い、ことだ。
わたしが望めば――。
この証は、消える。
しかし、喜びは、わきあがって来ない。
わたしは、治したい、んだろうか?
「…………」
フリードが、執務用の席から立ち、わたしの近くまで来た。わたしの顔の火傷の跡を、わたしの手ごと、その大きな手で包む。
「俺が治せといったら、治すのか?」
そのとき、はっとした。
少し前のわたしだったら、あるじ様のご命令であれば、と従っていた。
だから、こうして訊きにきてしまったのだろう。
けれども、心の中では、とっくに定まっていた答えが、明瞭になった。
わたしは。
「――わたしは、このままで」
自分で焼いた、この傷跡があってこそ、わたしだ。
わたしの身に起こった、よくある話。
あの過去があって良かった、などとは言えない。何も起きなければ、いまもわたしは王都の平民街に住んでいて、父や母と暮らしていたろう。
暢気で平和で、少し傲慢な街娘として。
降臨祭には沸き立ち、聖女様の結婚式に憧れ――。もちろん、顔に傷跡などない。
けれども、ここに、フリードの側に立つわたしは、あの過去があって、生まれた。
この火傷の跡は、わたし自身。わたしが形作り、わたしを形作るもの。
醜くとも、恥じることはない。誰が言おうとも、隠す必要などない。
わたしは、治したくない。
――治さない。
「このままに、しておきたい」
「わかった」
フリードが微笑んだ。
この人がこんな風に笑うことは、わたしだけが知っている。