第七話
気が付いて振り返って、其処に何もないと知って愕然とした。
◇◇◇
「殿下に、これを」
翌日、午前のお茶の時間に現れたジュリアさんが嬉々として王子様に剣を手渡した。
王子様は青い大きな目を零れそうなほど丸く見開いてそれを食い入るように見つめる。
視線に力があったら穴が開くんじゃないかというくらい見つめた後、ジュリアさんに視線を移して「いいの?」と伺うように首をかしげた時の可愛さったらない。
「ええ。アレクから、貴方に」
「お母様から…」
ジュリアさんから剣を受け取って、小さな胸にそっと抱きしめる王子様。
窓から差し込んだ日の光にキラキラ輝く金髪が彩る白磁の頬が緩んで、よく熟れたサクランボのような唇がぎこちなく弧を描いて泣きそうな笑みを形作る。
やっべ、うちの王子マジ天使。
ふにゃりとゆるく笑う王子様の笑顔に、ウィルもアマンダさんもゆるゆるだ。
きつい目元に柔らかな皺ができるくらいゆるんだ表情でジュリアさんが笑う。
しかたない。しかたないよ!
こんなに可愛いんだもの!
おっと、よだれが。
「今日の午後から剣術の稽古が加わって、これからは午前中に魔法術、午後が体術、礼儀作法社交術は適宜というスケジュールになります」
ジュリアさんの言葉に、王子様の顔が花のように輝く。
「はい!よろしくお願いします!」
両手で剣を大事そうに抱きかかえて宣言する王子様に、ジュリアさんが微笑む。
「こちらこそ。いくら主のお子様でも手加減はしませんから、そのおつもりで」
「やりましたね!殿下」
「ああ!これでようやくウィルと一緒に稽古が受けられる」
我が事のように喜びはしゃぐウィルを振り返って、幼馴染の二人が同じように笑いあった。
その上から微笑んでいたジュリアさんの笑顔の質が変わって、にやりとした笑みになる。
「素質の上では殿下の方に軍配が上がるから、うかうかしているとすぐに追い越されますよ、ウィル」
ジュリアさんの言葉にウィルの顔色が若干渋くなった。
「う…私も負けないようにがんばります!」
微笑ましい光景だ。
こうピンポイントで欲しいものプレゼントするって、よく相手を見ていないとできない芸当だぞ。
やっぱり王子様は王妃さんに嫌われてなんかいないじゃないか。
パーティの時母子仲が微妙な空気醸してたからフォローしたけど、この分じゃ必要なかったかな。
余計なことしたかも。
まあ、過ぎたことはいいか。
いやぁ。美男美女がそろって、アットホームな海外ドラマでも見てる気分だ。
目の保養になる。
なんて言ってる場合じゃなかった。
王子様が訓練始めるってことは、俺も戦闘に駆り出される可能性が高いってことだよ!
やばいって!
「あの、私もその訓練に参加させていただいてもよろしいでしょうか?」
おずおずと手を挙げると、アットホームな会話祖繰り広げていた美男美女軍団の目が一斉に俺に集まった。
こ・わ・い!
なにコレ、超怖い!
俺なんか変なこと言った?!
それともなに?俺なんかが美男美女軍団に話しかけてんじゃねぇぞみたいな?
俺のアバター、サクラさんの容姿ってかなり愛くるしいよね?!
は!実はサクラさんの容姿では隠し切れないほどの変態臭がにじみ出てたりするのか?
「サクラも一緒に訓練受けてくれるの?」
混乱に陥っていた俺を救ったのは王子様の声だった。
キラキラした青い目を俺に向けて俺に向けて笑いかけてくれている。
しかも、「一緒に訓練受けて“くれる”の?」だってよ!
あー、王子様マジ天使。
性転換してくれないかな。
「殿下…ですが、従獣が戦闘訓練など聞いたことも…」
嫌そうにウィルがちらちらとジュリアさんのほうを見ながら言う。
断ってくれないかなーって言いたいわけですね。わかります。
ようやく王子様とラブラブ二人きりの特・訓だったわけですもんねぇ。
俺みたいなお邪魔虫さっさと消えろってか。
あえて言おう。だが断る。
ていうか、俺はお前なんかに許可をもらう必要性を感じてない。お前らの仲を邪魔する気もないしねー。
ぶっちゃけ、俺は俺が死なない程度に強くなれればそれでいい。
天使も俺の魔力量とか戦闘能力は低いって断言してくれちゃったわけですし?
最低ラインとか、傷付く。普通こういう異世界転生記とか、チート能力のオンパレードなんじゃねぇの?
しかもサクラさんって一応カミサマの分類になるわけだしさぁ。目算で天使より低いって、どうよ。
魔力量に関しては使えば使うほど大きくなるらしいが、午前中魔術の時間にちょこっと使うくらいでは増えないだろう。
王子様もかなり自主練しているみたいだし。
よくあるこういう異世界転生ものだと魔力切れ起こすくらい使うと倍々形式で増えていく。ならば俺もそのレールに乗っかってみようとは思うが、どんなふうに魔力使ったら良いか思案中だ。
戦闘に取り入れられる方がいいから、どの道戦闘訓練は受けておきたい。
「いや、従獣でも連携を高めるために戦闘訓練に参加する事はあります。ですが、サクラは…」
え、ジュリアさんも渋るの?
俺王子様と一緒に戦わなくちゃいけないんだよね?
戦わなくていいんならそっちの方が俺的にはいいんだけどさ。俺、王子様を守って戦うことを期待されてるんじゃなかったっけ?
寧ろそっちがそう言ったんだから協力を要請してるんだけど。
もしかして、使い物になりそうになかったら即処分するためには余計な戦闘力はいらないってことか?
まずい。ここで彼女の協力を得られないと、俺は本当に木の盾的な扱いをされるような気がする。
しかたない、ここは奥の手を使わざるを得ない。
「だめ、ですか?」
しょぼんと、肩を落として首は斜め三十度くらい傾けて、眉尻を下げて目は大きくうるうると!
上目づかいで、やりすぎると睨んでるっぽくなるから若干上目使いぐらいってのがポイント。
さりげなく袖の裾を指先で摘んでみる。
そうすると、あら不思議。
渋い顔だったジュリアさんの表情が、孫におねだりされたおばあちゃんみたいな顔になった。
「困りましたね…」
「良いではないですか。何か不都合でも?」
紅茶を注ぎなおしていたアマンダさんが味方に付いてくれた。援護射撃GJ!
サクラさんの容姿を最大限活用すべく夜練習しといてよかった。
「いや、不都合というか。…私は人の戦い方しか知らないから、それでもいい?」
ジュリアさんが困ったようにいう。
どういう意味か測りかねて首をかしげると、ジュリアさんは苦笑した。
「獣には獣の、人には人の種族特有の戦い方があるでしょう?例えば天使なんかは、肉体がないから魔法攻撃しかできない」
「そういえばさくらって、種族的には何になるんだ?神樹?」
あれ、俺種族的に何になるんだ?ヨシノさーんヘルプ。
《解:ドリアード》
あ、ドリアード。了解。
「一応、ドリアードです」
「ドリアードですか。でしたら、その体は魔力で?」
「へぇ、そうなのか」
王子様たちは納得した風だが、ドリアードってなんだ。
《ドリアード:ギリシャ神話で登場するドリュアス(Dryas)という名の、木のニンフ(精霊)。ドライアド(ドライアード)、ドリアードは、「Dryad」を英語、またはフランス語で発音したもの。本体は、長く生きてきた古木で、大抵美しい女性の姿をしている。基本的には没交渉だが、自分と敵対する者には容赦しない。また、美男子を見かけると誘惑し虜にしてしまう恐ろしい面もある。本体の木と離れすぎるか、木が枯れる、または切り倒されると死亡する。参考資料:ドリュアス - Wikipedia、他。》
…この場合、本体の木って、アバターのサクラさん?それとも神界に鎮座ましましているあの木のほう?
《解:神界のサクラ。下界のサクラは思念により物質化されている魔力の塊であり正確には質量をもった物体ではない》
あ、このサクラさんって俺のキャラ付けに基づいて成り立ってるわけだ。だったら外見なんて容易に変えられそうだ。なんか結構便利。
それより、本体と離れすぎると死ぬらしいけど、結構距離離れてね?大丈夫なの?
《解:神界は概念上ユビキタスである》
あ、どこにでもあるってこと。世界のどこでもオッケーなわけだ。そう考えると本体に接触されないという点に関しては便利だな。
それにしても、答えがあるときはレス早いなー。知らないときは黙秘なのに。
検索かけて答えでないときは不明とか出るようにしといてね、ヨシノさん。
まあ、それはいいとして。
ドリアードか。基本的な能力って回復補助系に特化してるイメージあるな。
あと、なんか木から木に瞬間移動できそう。
…戦闘能力低くね?王子様とパーティ組んだとしても、どう考えても火力王子様側だよね。
回復役とかある程度レベル上がるまで攻撃魔法覚えられないイメージなんだが。覚えてもしょぼかったり。
しかもHPもMPも少ないって姫ポジ確定じゃね…?
寧ろ俺なら冒険に連れて行かないわ。こんなアウターだけの使えないキャラ。
ヤバい!まずいって!
このままじゃ強制的にポイされちゃう!
王子様が外に出るのっていつだっけ?確か次男は十歳の誕生会で実力を騎士団長に認めさせて、次の日から冒険に出始めたんだった。
奴は規格外だとしても、おおむね十歳の誕生日が終わったら護衛付きで外に出るような感じだって王子様ライブラリに書いてあった気がする。
王妃さん達はこの王子様が外出する時の護衛の人数に入れたいわけだよな?
てことは後、四年くらいか。
必死に修行しないとマジでポイされるかも。
「…でしょう?今のところ体力作りを念頭に置いているので、参加する意義は少ないと思いますよ」
ジュリアさんがそういって慰めるように俺の頭を軽くなでる。
やっべ、聞いてなかった。
だが、大体分かった。魔力で体作ってる俺にとって肉体を鍛えるとかそういうのは必要ないから、他の方法探せってことか。
例えば魔力量増やしたり、できること探したり?
だからそれをどうやって、てこと聞きたいんだけどなぁ。
「…サクラ様はもともと樹木でいらっしゃるのでしたね。でしたら、ガートナーに聞いてみましょうか」
ガートナーって、パーティにいたあのゴッツイ庭師のおっちゃんだよな?
快活な感じの如何にも職人気質で、いい感じのおっちゃんだった。あのおっちゃんに何ができるかは知らないが、確かに植物の専門家ではあるだろう。
「はい。よろしくお願いします」
俺が頭を下げると、王子様たちは安堵したように微笑んだ。
一番うれしそうだったのは言うまでもなくウィルだ。なんだかちょっと負けた気分だが、仕方ない。
庭師にかわいい子がいることを祈ろう。
色取り取りの花が咲き誇るイングリッシュガーデンに似た庭だった。
蔓薔薇のアーチやカラフルな石畳の小道、サファイヤのように煌めく小魚が泳ぐ小川、天使が彫刻された噴水、覗き込まないと見えない隠れ家のような四阿。
一見すると絵にかいたようなイングリッシュガーデンだが、所々様相が違っているのはやはり似たような文化でも違うからなのだろう。
よくよく見てみれば、花々も俺のライブラリにあったものとどこかしら違っていた。
例えば普通に青いバラがあったり、紫式部のような枝ぶりの低木に真珠のような光沢の実だか花だかわからないものが鈴なりについていたりする。
美しい庭だと思う。
空気もよくて、草花が伸び伸びと育っている感じだ。
「ということですので、サクラ様をお願いします。あなたなら滅多なことにはならないでしょう、ガートナー」
「よろしく頼む」
「よろしくお願いします」
アマンダさんと王子様に頼まれて、庭師のおっちゃん…ガートナーさんは苦虫をかみつぶしたような顔になった。
何でおれが、って顔に書いてある。
でもそれを口に出さずに軽く頷くことで了承したのは、王子様が主である王妃様の息子さんだからだろう。
身分や主従関係は正直あんまり理解できないけど、この世界では必要なことなら解らなくても飲み込まなきゃいけないよな。
「じゃあサクラ、またあとで」
うきうきと訓練に向かう王子様とアマンダさんを見えなくなるまで笑顔で見送って、俺はガートナーさんに向き直った。
パーティの時はあんなににこやかだったおっちゃんが不機嫌そうな顔をしている。厳つい顔をしているから、そういう顔をすると迫力が増してちょっと怖い。
如何にも厄介ごとを押しつけられて迷惑している顔だ。
いくら王子様の頼みだからって、こんな何もできない子供の面倒を見るなんて嫌だろう。
しかも、ガートナーさんは俺が見る限り、庭師の仕事に誇りを持った本当の職人みたいな人だ。
ド素人に庭を我が物顔でうろつかれるなんて気分のいいものではないだろう。
頭を下げた。深く、許しを請うために。
「…何してるんです?」
不機嫌そうな声が頭上から降ってきた。
顔は見えないけど、その声が怒鳴る前の脛に傷のある人たちの親分の声のような凄味があって、思わず身をすくませそうになる。
ガートナーさんが敬語なのは、一応王子様の従獣である俺のほうがただの庭師であるガートナーさんより身分的に高いからだ。
そうでなければ経験も知識量も目上の彼が俺なんかに敬語を使う必要なんてない。
特に、俺は彼に教えを請う立場なのだから。
「私の我儘のためにお仕事のお邪魔をしてしまって申し訳ありません。ですが、私の命を救うためにご協力いただけませんでしょうか」
…ガートナーさんは黙っていた。
ちょっと、沈黙が怖いんですけど。
俺は恐ろしさのあまり顔をあげて様子をうかがうこともできずに内心冷や汗を滝のように流した。
お願いだからなんか言って!
もう怒鳴り散らすのでもいいから…いや、怒鳴られるのは怖いからできればなしでお願いします。
ため息が降ってきた。
思わずあげそうになった顔を、一生懸命下げたままに保たせて次の言葉を待つ。
「何で、お前さんのためなんだ?」
言葉がため口になっていた。
言葉と一緒に声もちょっと砕けた感じがしてほっとする。
「殿下は、私なんかいなくても大丈夫でしょう?」
言ってしまって、苦笑した。
木の盾にも劣る俺なんかいなくても王子様の護衛なんか、腕の立つのがいくらでもいるだろう。
本当にただ、俺が破棄されないための足掻きなんだから、“俺のため”であってるはずだ。
そんな風に思っていたら、頭をつかまれた。
そらもう、ぐわしっ!て感じで。
ギャー!痛い、痛いって!
いや、痛覚鈍いから叫ぶほどじゃないけど!
頭掴まれたままでぶら下げられたら首もげる!
「☓△■〇※!」
耳元で吠えられた。
あまりの事に耳を覆うことも追いつかなかった。
聴覚鋭いから、もう、何言ってるか聞き取れない。
頭がキーンとなって、くらくらする。
俺死んだって、思ったね。二度目。
俺が軽く失神してる間にも、目の前でガートナーさんが何か言ってるけど、まあ、聞こえないよね。
ていうか、聞こえてたとしてもこの状態だと認識できない。
ごめんなさい。とりあえず降ろしてください。
ガートナーさんの怒鳴り声に他の庭師さんが駆け付けてくれて、ようやく俺は地面に帰りつけた。
生まれたての小鹿並みに足がプルプルしてたてませんが、何か。
排泄器官がなくて助かった。何でかって?聞くな。
確認しておくが、サクラさんは愛くるしい幼女のアバタ―だ。…意外に萌える、か?
いや、中身が俺の時点でいろいろアウトだ。
「こんな小さい子に何やってんですか!親方」
俺を助けてくれた庭師さんがガートナーさんに食って掛かってくれている。
ガートナーさんはふん、と悪びれもせずに鼻を鳴らした。
「俺は悪くない」
言葉はちょっと悪戯を見つかった子供みたいだが、嘘はついてない。
俺も何か言い返そうとした庭師さんの袖を引いて、ガートナーさんの言葉を肯定する。
「わ、私が悪いので…」
声が震えてしまったのはご愛嬌だ。
俺を振り返った庭師さんがますます眉を吊り上げる。
「こんな子供に何気を使わせてんですか!」
え?俺、ガートナーさん悪くないって言ったのに。
ヒートアップしていく庭師さんに、ガートナーさんも渋い顔で聞き流している。
子供好きなのか、なんかめんどくさい。
俺のために怒ってくれてるんだろうけど、なんだか見当違いだ。
そのうち庭師さんの文句の方向性も変わってきてしまって、自分の待遇が悪いとか言ってる。
関係ないことまで言ってるけど、どうしよう。
「おい」
オロオロしてたら、ガートナーさんが俺に声をかけてきた。
ガートナーさんは相変わらず不機嫌そうな顔で、それでも最初に比べたらずいぶんとマシのようだ。
声のトーンも落ち着いている。
一度怒鳴って少しすっきりしたのかもしれない。
「俺はあっちで仕事をする。ついてくるか?」
これは、ついてきてもいいということだろう。
つまり、許してくれたってことでオッケー?
嬉しくなってゆるむ顔を押さえつつ、頷いてから気付いた。
隣で「だいたい親方の顔が怖いんだから」とか朗々と文句垂れ流してる庭師さんどうしよう。
「そいつはほっとけ。勝手に戻ってくるだろう」
ガートナーさんが俺の視線に気付いて言った。
ガートナーさんがそういうのなら、そうなのだろうと納得して、俺はガートナーさんの後についていくことにした。
近づいて、荷物が結構多いことに気が付き、俺でもぎりぎり持てそうなバケツを抱える。
「お、持てるのか」
その声に軽い驚きが混じっているのを聞き分けてちょっと得意になる。
「はい」
「助かる」
そう言ってガートナーさんは歩き出した。
歩幅が全然違うから小走りになる俺に、ちょっと歩調を緩めてくれる。
自分で持っていった方が早いだろうに、バケツをそのまま持たせてくれている。
きっと今朗々と文句を並べたてている置き去りにされた庭師さんも、彼に師事していたのだろう。
面倒見のいいおっちゃんだ。
「私も、親方って呼んでいいですか?」
なんか、師弟っぽくていい。
そんな風に聞いてみたら、苦虫をかみつぶしたみたいな顔をされた。
「お前は庭師になるわけじゃねぇだろう」
まあ、そうだが。
じゃあ、なんて呼ぼう。
ガートナーさん、てのは何か違う感じがするし。
「では、師匠」
呆れたようなため息が聞こえたが、否定はされなかったので了承を得たということでいいのだろう。
◇◇◇
空の高い所を何かが飛んで行った。
多分鳥だろうとは思うが、色も形もわからないくらい小さかったからもしかしたらはるか上空を飛ぶドラゴンだったかもしれない。
そんなことを思っていたら、水が降ってきた。
「ぅわ!」
「はいはい!いつまで寝てる気ですか、殿下。早くしないと夕食までに間に合いませんよ」
ジュリアがバケツを持ったまま空いた手を腰に当てて言い放つ。
ジュリアは優しいけど厳しいから、このままだと本当に夕飯抜きになるってことだ。
すぐさま跳ね起きて構えたいとは思うが、体のあちこちが痛すぎて木剣を杖代わりにフラフラ立ち上がるのが精一杯だった。
「後、50本。頑張ってくださいね」
僕は内心悲鳴を上げた。
さっきまでは後20本だったはずなのに、いつの間にか30本も増えている。
でもここで音をあげていては、ウィルはもとよりお兄様たちに追いつくことなんて到底できない。
今もウィルは僕より早く外周を走り終えて素振りも終わって、もう一度外周を走りに行っている。
ウィルが走り終えて帰ってくるまでに素振りを終わらせなければ、夕食は抜きだといわれた。
立派な剣をくださったお母様の期待に応えるために、握力がなくなってぶるぶる震える手でもう一度木剣を掴みなおして構えた。
頭の上まで振り上げて、下ろす。
単純な動作のはずなのに、疲れた体では切っ先がまっすぐ下りないどころか、気を抜くと手から木剣がすっぽ抜けてどこかへ飛んで行ってしまう。
その度に腕立て伏せやスクワットを言い渡されるから、体中がきしんで悲鳴を上げていた。
きっと明日はもっとひどいことになるだろうと気がついて、思わず顔をしかめてしまう。
こんなに無様な姿をサクラにみられなくてよかったとちょっとだけ思った。
サクラを思い出して、大丈夫かなと心配になる。
午後に分かれてすぐ、大きな声が聞こえたと思ったけれど、気のせいだったかもしれない。
サクラが無口なガートナーを怒らせるようなことをするとは思えなかったし。
「殿下。気が散っているようですね。ちゃんと集中してください」
ジュリアから叱責が飛んで来た。
「はい」
僕は気を入れ替えて再び木剣を強く握った。
ちょっと短いですが、ここまで。