11・誠実
バケツをひっくり返したような――という言葉がある。
けれども、実際に頭上で水の入ったバケツをひっくり返されることになるとは、つい数日前までの私は想像していなかった。
髪の毛だけでなく、服や靴、持っていた鞄までびしょ濡れだ。朝、アイリスが綺麗に梳かしてくれた髪の毛は水気を含んでずっしり重くなって、毛先からぽたぽたと雫が落ちる。
抵抗しないでいると、目の前にいた女が肩を掴んで突き飛ばしてきた。背中を壁に強打して、私はその場にへたりこんでしまう。
「いい加減にしなさいよ!」
金切り声が耳に響く。うるさいな。
彼女らの嫌がらせはさらにエスカレートして、それはもう暴力と呼ぶべきものだった。もう顔を隠す必要はないのか、四、五人の集団になって私を襲う。そうして毎日日替わりで、私への嫌がらせをわざわざ用意してくれているのだ。有難くて涙が出る。
今も、講堂と講堂の間の路地に引きずり込まれて五人の女に囲まれてしまった。いきなり訳の分からないことを喚いたかと思えば、頭から水をかけ、壁に押し付けてくる。
奴らは相当巧妙で――他人の目に触れそうな場所に傷跡などつけないのだ。腹部や背中などが中心で、間違っても顔になど手は出してこない。だから顔や腕だけは綺麗なままだけれど、その代わりに見えない場所は痣だらけになっている。
「いつもいつもギルバート様にちょっかいを出して」
「貴方みたいな女が」
「おまけにシャーニッド様まで」
「どうやってたぶらかしたのか教えなさいよ」
こんな風に難癖をつけて他人を足蹴にする女たちが、この国の未来を背負う淑女だなんて、世も末だ。
彼女たちの目的はもう分かっている――ギルバートが好きで、傍にいる私がとても邪魔。ただそれだけのことだ。私が退学なり何なりすれば、それで満足なのだろう。
私を誰だと思ってるの、この国の『顔』と呼ぶべきヒューネベルグ公爵の娘よ――そう怒鳴ってやろうかとも思ったが、そうしたところで事態は好転しない。
そもそも貴族の令嬢というのは、幼いころから高度な教養を身につけ、親の決めた相手のもとへ嫁ぎ、夫人として穏やかに暮らす――そういうものだった。けれども近年では、貴族の娘の求心力というのが飛躍的に高まっている。女性でありながら王宮で政務に関わったり、中には軍人として身を立てる人もいるらしい。そんな風に、女性でも出世できる世界になりつつあるのだ。
だからこそこの学園にいる女たちも――良くも悪くも逞しいのだ。淑女とは程遠い、野望を胸に抱く女たちが増えている。
私自身がそうでないかといったら、否定はできない。私は侍女として生きたいと思っている。これはまさに、私の野望だ。私が一般的な令嬢だったら、きっと幸せな結婚をしたいとか、考えたのかもしれないけれど。
実力を至上とするこの学園で、親の権威など通用しない。自分の身の安全は自分で守らなければいけない。
「何とか言いなさいよっ」
一人の生徒の足が腹部を蹴りあげ、思わず私は呻いた。……この周辺の講堂を使う生徒はそういない、助けなど来ないだろう。
切り抜ける手段といえば――何も言わず、何も抵抗せず、ただ相手が飽きるのを待つだけ。
奴らは小心者だ。刃物を持ち出すような勇気はない。せいぜい殴る蹴るが関の山、書物より重いものを持ったことのない女の細腕だ。威力など、たかが知れている。
いつもならとっくに寮に戻っている時間だ。アイリス、心配しているだろうか。探しに来てしまったらどうしよう。あの子に私のこんな姿、見せたくない。
ギルバートに見られたりしたら、そんなことになったら、私は。
「おやめなさい」
突如、場にそぐわない静かな声がした。女たちの暴行が止まり、私も顔をあげる。
路地の入口に立っていたのは、豪奢な縦巻きの金髪を持つ少女。
「る、ルテラ様……!」
他の女たちが驚いたようにその名を呟く。ルテラはこちらへ歩み寄りながら冷たく言い放つ。
「貴方たち、こんなやり方は美しくありませんわよ。傷なんてつけてどうするのです、肉体の痛みは我慢できてしまいます。徹底的にするのなら、精神的に追い詰めなくては」
ああ……そうだった。ルテラもまた、ギルバートに恋心を抱いていたのだ。私を憎むのは、当然――彼女らの仲間であることも、当然。
少し期待をした自分を、殴ってやりたい。
「私がやります。貴方たちはお帰りなさい」
「わ、分かりました」
ルテラと彼女らの間には強固な上下関係があるらしい。ルテラの言葉に、反論もせずすぐに従った。
路地から女たちが出ていく音がする。座ったまま視線を下に向けている私の視界には、目の前に立つルテラの足しか見えない。
ルテラがしゃがんだ。何をされるのだろう。弱みでも持ち出してくる気か。アイリスでも持ち出して来たら、ただではおかない――。
そう身構えていたのに、感じたのはふわりとした優しい感触。はっとして顔を上げると、ルテラはハンカチで私の濡れた髪の毛を拭ってくれていたのだ。
「しっかりなさって。来るのが遅くなりましたわね」
「……なんの、つもり?」
「そう身構えないで。わたくしは貴方への借りを返しに来ただけですわ」
そう言いながら、ルテラは重たくなったハンカチを一度絞り、再び私の身体を拭ってくれる。
「借り?」
「以前の切り裂き魔事件の時のことです」
そういえば……ルテラにおどかされて、危うく私は死にそうになったんだったか。
「貴方はわたくしを赦して下さった。だから今度は、わたくしの番です」
「どうして? 貴方だって、ギルバートが好きなんでしょ」
「ええ、少なくとも貴方がギルバート様と出会うよりずっと以前から、お慕いしていました。けれどもギルバート様の視線がシャノン、貴方に向いているのは明白。ならばわたくしは……ギルバート様のためになることをしたいのですわ」
信じていいのか。いや、ルテラは『精神的に追い詰める』と言っていたではないか。きっとこのあとで、手痛く裏切るに違いない――。
「……信じられないのは当然ですわ。でも聞いてくださいませ。わたくしは先日、ギルバート様に貴方の危機を知らせるメッセージを届けてきましたわ。ギルバート様にも監視の目がついているのでおおっぴらには動けませんでしたが……あの御方なら、きっと気付いてくださいます」
「メッセージ……?」
「おそらくギルバート様とシャーニッド様で、何らかの対策を講じてくださるはず。おふたりが貴方を迎えに来たその時は……このルテラの言が正しかったことを認めてくださいませ」
ルテラはそう言って、私の手を取って立ち上がらせた。羽織っていた濃紺のカーディガンを私に羽織らせてくれて、こう言っては何だが優しすぎて奇妙な感覚だ。
「わたくしはもう行きますわ。いまのところ自由に動けるのはわたくしだけですし、また会いに来ます。だからそれまで、耐えてくださいませね」
「自由に動けるって……?」
「彼女らの仲間を、演じているのですわ」
「演じて? どうしてそこまで……」
「言ったでしょう、ギルバート様のためになりたいから。貴方を傷つけるのは、あの方のためになりませんわ」
勝気な笑みを見せて、颯爽とルテラは立ち去った。
ギルバートへ対するルテラの想いはとても重く、真面目で誠実だった。その気持ちに偽りがないことを私は知っている。
信じていいのかもしれない――。




