第97話 魯粛、世に出る
男の口中が苦く感じるのは、先ほど口に入れた草の味のせいだけではあるまい。
とうとうと流れる長江の流れを見つめながら、男は不遜な言葉をつぶやき続ける。
「漢朝など早く滅んでしまえばいい。」
いくら乱世と言えどもここまで過激な発言を堂々と行う者もいないであろう。
特にここ徐州南部の下邳国では、数年前に闕宣という男があろうことか天子を自称したが、たちまち徐州牧の陶謙によって攻め殺されるという事件があった。
それ以来、このあたりの者たちは「賊」と断じられるのを恐れて滅多なことを言わないよう神経質になっているのである。
だが、この男はそんなことなどさして気にも留めていないらしい。
日には焼けているが整った顔立ちといい、身にまとう高価な衣装といい、人品卑しからぬ人物である。
一見したところ、およそ物騒な言葉を口にするような者には見えない。
男の名は魯粛、字を子敬という。
ここは彼の生まれ故郷であり、下邳国のうちでも最も南に位置する東成県、かつては臨淮郡東城県といった土地である。
この県では知らぬ者のない豪族の家に生まれた魯粛は侠気にあふれ、近隣の若者を集めては自警団を結成するなど豪放な人柄で通っていた。
ただ、彼の心中深くにまで通じている者はほとんどいない。
「蓋世の英雄というものは、どうしてこうもいないものか!」
今日も魯粛は故郷でひとり憤慨している。
彼の家と似たような豪族たちが形成する名士層には嫌悪感を抱き、彼らが崇拝する後漢王朝に対しては何の感慨も持っていない。
むしろ、滅ぶべくして滅ぶ存在と見なし、新たな世を創る英雄が出現すると信じている。
だが、彼の想いとは裏腹に現実は愚にもつかぬ小物たちが大物のような顔をして武を振るい、いたずらに民の血を流している。
時には代々の家産を食いつぶすドラ息子という目で見られもしながら、自力で故郷の民の安全を守ってきたと自負する魯粛にとって、ただ民の害悪でしかない支配者など邪魔な存在でしかなかった。
初め、魯粛は陶謙に期待していた。
彼は強力な私兵を背景に名士べったりの姿勢はとらず、流入する流民を受け入れて農業振興を図るなど一州の為政者としてはなかなかの才幹をみせていた。
しかし、最終的に彼は曹操によって荒らされた領土を残して世を去るはめになった。
乱世に備えて軍備の増強を図ったまではよかったが、質より量を優先した結果、いきなり天子を名乗るような輩を取り込んでしまい、曹操に討伐の口実を与えてしまったのだ。
結局、陶謙には覇業をなすだけの実力がなかったと言わざるを得ない。
(その点、曹孟徳は英雄たる人物なのかも知れぬ。だが、あれでは・・・。)
魯粛の眼には陶謙を圧倒した曹操の方がより乱世の英雄にはふさわしい人物に映っている。
元々どんな権威にも盲従せず職務を果たすことで知られ、だらしない将が目立った反董卓連合軍のなかでは積極的に董卓軍に挑み、その名を揚げた。
兗州牧におさまってからは軍事的才能にも恵まれていることを示し、特にここのところ献帝を許に迎えてからの勢力伸長は目覚ましいものがある。
だが、魯粛は曹操に対してどうしても嫌悪感を抱いてしまう。
陶謙を2度にわたって攻撃した際、徐州における曹操軍の乱暴狼藉は目に余るものがあった。
自ら自警団を結成して郷里を守ってきた魯粛にとって、曹操はそこいらの流賊などと何ら変わりないように思えた。
いや、下手に強大な軍事力を持っているだけに、流賊よりもはるかにたちの悪い存在に感じてしまうのだ。
曹操の実力は認めても、彼に仕えたいとは思えないのが魯粛の偽らざる想いである。
とは言え、曹操以外の人物となると、どこにも見当たらないというのが魯粛の憂鬱に拍車をかけている。
曹操の同盟相手である袁紹は名士たちに迎合しているだけだ。
陶謙の後を継いだ劉備は漢室の一員を自称しており、魯粛の「革命思想」を容れる余地などなさそうである。
現在は徐州南部を袁術に奪われているが、魯粛は広陵郡に逃げた劉備の後を追うつもりにはなれなかった。
かわってこのあたりの支配者となった袁術は帝位をねらっていると専らのうわさだが、その暴政は曹操の略奪よりひどい。
徐州北部は呂布の支配するところとなったが、その裏切りを繰り返してきた遍歴は彼が自己の利益のみに忠実な人間であることを如実にあらわしている。
(いっそ、俺が天下をとるか!?)
そう思うこともないではないが、彼が追い求める天下人の像と自分はいかにもかけ離れており、昼寝で見た夢よりも現実味がなかった。
「おお、ここにおられましたか。お客さまが参っておられますぞ。早くお屋敷にお戻りくだされ。」
随分と魯粛のことを探したらしく、呼びに来た従僕は冬場にもかかわらず汗だくになっている。
「客?誰が来たのだ!?」
「居巣の県長さまだそうで。」
「どうせ下っ端の使い走りがやって来たのだろう。適当に金をやって追い返せ。」
物憂げに立ち上がりかけていた魯粛は座り直した。
富裕な豪族である魯家には刺史や太守、県令などからの使者が来ることはしょっちゅうある。
大抵が金穀をねだる使者であり、たまに出仕を求めてくることもあるが、いずれも使者が遣わされてやって来る。
いちいち応対するのも面倒なので、魯粛は毎回配下の者に対応させ、適当に金などをやって引き取らせていた。
「いえ・・・それが県長さま本人がお越しです。数百人の供を連れ、旦那さまにお会いしたいと。」
「県長本人が!?しかも・・・居巣県と言えば、揚州の随分南にある県じゃねぇか。・・・面白い。おい、その男の名は?何と名乗った?」
高官からの使者が来ることはよくあるが、本人がやって来たのは初めてである。
しかも、居巣県はこの東成県からは130キロメートル以上離れている。
居巣県長とはよほど変わった男か、それともよほど魯粛のことを見込んでくれているに違いない。
「周公瑾さまと承っております。」
「周公瑾どの、か。盧江の周氏の出だな。いつ県長になったのやら。まだ相当に若かったはずだが・・・まあ、その出自ならばあり得るか。いや待てよ、周公瑾どのと言えばいま日の出の勢いの孫伯符どのと肝胆相照らす仲だとか。あるいはそっちの引きで県長におさまったのかもしれんな。まあいずれにしても興味深い。会ってみよう。」
魯粛はみるみる笑顔になり、今度は素早く立ち上がった。
たちまち屋敷に向かって走り出す。
なんだかんだ言って人と出会うのが好きなのである。
屋敷に戻ると大急ぎで身支度を整え、客人のもとへと顔を出した。
(若い・・・!)
魯粛が相手に対して最初に感じたのはそのことであった。
魯粛もまだ26歳の若さなのだが、周瑜はそれよりもさらに若くみずみずしい。
秀麗な面貌を持つ23歳の若者は思わず魯粛が一瞬見とれてしまうほどの美しさに満ちていた。
「ぶしつけな訪問、失礼いたします。この度居巣県長を拝命いたしました周瑜、字を公瑾と申す者でございます。」
「これはご丁寧なあいさつをありがとうございます。当家の主の魯粛、字を子敬と申します。ようこそお越しくださいました。」
あいさつを交わした後は、雑談へと移る。
故事について詳しく語ったり、共通の知人についての話をしたり、天下の情勢について話したり。
初対面ということもあり互いの器量を探り合いつつも、軽快に会話が進んでいく。
「実は・・・本日はお願いがあってまかり越しました。」
ひとしきり会話を楽しんだ後、改まった口調で周瑜が話し始めた。
県長の地位にある人物がわざわざ100キロメートル以上の道のりをやって来たのだ。
ただ話をしに来たわけではなかろう。
魯粛はどんな要請があるのかと若干身構えた。
「居巣県では冬を越す食料すらない民が数知れず、このままでは収穫の時期まで持たずに飢えてしまいます。ついては、貴家の厚情におすがりしたく足を運んだしだいです。」
周瑜の言は明朗で率直なものである。
居巣県がいかなる窮状に陥っているか簡潔に述べ、その解決のために食料援助を懇願するものであった。
「なるほど、わかりました。では参りましょう。」
周瑜の願いを聞くと、魯粛はそう言って立ち上がり、さっさと外へ出ていく。
慌ててついて行く周瑜はやがて外に立てられた巨大な2棟の建物の前に導かれた。
屋敷の母屋と同程度の規模を誇る建物だが、窓がほとんどないことから蔵であることはすぐにわかった。
「半分、差し上げましょう。」
どうやらこの2つの蔵の中にはいくらかの穀物が貯蔵されているらしいが、魯粛の言う半分とは何を指すのか。
周瑜はやや困惑して聞き返した。
「半分と申されますと・・・?」
「ああ、半分ではわかりにくかったですな。1つの蔵に3千斛ずつ入っております。2つのうちこちらの蔵の中のものをすべて貴君に差し上げましょう。半分とはそういうことです。」
「何と・・・!」
斛という単位は現在のそれに換算すると約180リットルである。
3千斛ともなれば約540トンという膨大な量の穀物である。
それを魯粛は会ったばかりの周瑜にそっくりくれるという。
(この男、狂人か。それともよほど大度な男なのか。)
さすがに周瑜もびっくりして言葉が出ない。
さっき知り合ったばかりの人間にこれだけの財をポンと渡すというのは常人ではあり得ない感覚であった。
「民が困っておるのでしょう?それを憂いて貴君ははるばるここまで頭を下げに来られた。わたしがその赤心に報いぬわけにはいかぬでしょう。」
魯粛は微笑すら浮かべながら淡々とそんなことを言う。
どうやら周瑜の反応を内心面白がっているようだ。
それを見た周瑜は目の前の人物の器量の大きさを確信していた。
「ありがとうございます。一粒たりとも無駄にはしないと固くお約束いたしましょう。」
周瑜は魯粛に向かって拝礼し、最大限の感謝をあらわした。
ただ、それだけで話を終えるつもりはなかった。
3千斛の穀物よりもっと価値のあるものをたった今見つけたのだ。
周瑜はまっすぐ魯粛を見つめると、口を開いた。
「ところで・・・呉へともに参りませんか?」