第95話 袁術、称帝す
「丹陽はほぼ我らの手に落ちたと言ってよいだろう。呉の叔父上、伯陽どの。袁公路さまへの報告を頼みます。」
声をかけられた初老の武将と20代後半の武将は黙礼し、きびすを返した。
彼らの全身からは不満がくすぶっているのが見て取れるが、だからといって彼らには抗う術はなかった。
彼ら2人のうち年かさの武将の名を呉景という。
揚州呉郡呉県の豪族の出であるが、むしろ今は亡き孫堅の義弟としての方が有名である。
元々孫堅の家は呉家よりも家格が下であったが、孫堅が一代で成り上がって呉景の姉をめとり、呉景も孫堅の身内として厚遇された。
ただ将としての才は孫堅にはるかに及ばず、その義兄の死後に軍勢を引き継いで袁術の属将となったものの、命じられた江東(揚州の長江以東)の攻略に苦戦続きであった。
もうひとりの伯陽と呼ばれた若い方の武将は孫賁である。
孫堅の兄の孫羌の子、つまり孫堅の甥にあたる。
孫堅の死後に孫家の跡継ぎとなったのは本家筋に当たる彼だったが、呉景以上に将才に恵まれず、叔父がつくり上げた孫堅軍団は精彩を欠くばかりであった。
その彼らに「命令」をくだした人物はどう見ても彼らよりも年若だ。
だが、その自信あふれる眼差し、日に焼けて浅黒くはなっているものの野性的な美々しさをまとったその男は、見るからに只者ではない雰囲気を漂わせていた。
孫策、字を伯符。
彼こそが孫堅の長男であり、横柄な袁術にすらこのような息子が欲しいと言わしめた逸材であった。
早熟の彼は叔父の呉景と従兄弟の孫賁が1年かかっても破ることができなかった揚州刺史の劉繇をたちまち撃破することに成功した。
彼は自ら陣頭に立つこともいとわない苛烈な指揮と守備兵力すらほとんど置かず戦力を極端に集中する用兵、敵の意表をつく機動力を駆使し、劉繇が要所に配置した軍勢を次々に各個撃破し、ついには劉繇の本軍すら撃破してこれを追い払ったのであった。
これによって丹陽郡は孫策が押さえるところとなり、敗れた劉繇は豫章郡に逃れ、曹操や劉表の援軍を頼みにするほかなくなった。
こうなると孫策の戦功や将才は呉景・孫賁の比ではないことがはっきりとした。
自然と孫策は両者よりも上の立場となり、丹陽郡平定の報告を両者に「命令」することができたのであった。
「伯符。彼らを寿春に追いやってどうするつもりだ?」
「公瑾か。君ならば聞くまでもないだろう。さ、これから会稽攻めの策でも練ろうじゃないか。」
退室した呉景らのかわりに入室し、親し気に孫策に向かって話しかけたのは美しい容姿の若者である。
色白の顔だが頬の辺りだけわずかに朱を差したように紅く、よく通った鼻筋とくっきりとした双眸を備え、女と言っても通りそうな美男子であった。
孫策も姿の美しい若者であるが荒々しさに満ちているのに対し、彼はえも言われぬ気品が全身から感じられる。
それもそのはずで、彼こそは周瑜、字を公瑾と言い、かつては三公も輩出した名門周家の御曹司であった。
およそそれぞれが交わるところがないような出自でありながら、彼らは幼少期から親友同士であり、今では孫策にとって周瑜は一番の腹心であった。
周瑜が意味ありげに笑いかけてみせたように、孫策が呉景らを袁術のもとへ報告という名目で行かせたことは別の思惑があった。
彼らは孫堅死後にその軍団を引き継いだ者たちであり、孫策にとっては自分の立場を潜在的に脅かす存在でもある。
彼らを物理的に遠ざけることで、孫策による丹陽郡の実効支配をより強固なものにしたかったのだ。
もちろん、呉景らもそのことには気づいてはいるが、殊勲者である孫策に何も言えなかった。
「まだ、まだこれからだ。江東を斬り取り、袁公路から自立してやる!」
そう語る孫策の眼は確かな自信と未来への希望に満ちあふれていた。
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曹操が宛にて苦杯をなめているころ、はるか東の揚州九江郡寿春県では袁術が一世一代の晴れ舞台を迎えていた。
常日頃から豪奢な衣装に身を包んでいる彼であるが、今日の装束はひときわ豪奢で龍の刺繍があしらわれたものである。
頭上には冕冠と呼ばれる冠が載せられ、前後に12本ずつの旒というひもが垂らされてすだれのようになっていた。
袁術は厳かな顔をつくろうと意識しているようであったが、ともすればその顔はだらしなく緩みがちであった。
それもそのはず、今日こそは彼が志尊の地位に登る即位式の日であった。
彼が身にまとう衣服も冠もみな皇帝にのみ許されたものであり、すなわち彼は自ら皇帝になろうとしていたのである。
彼は国号を「仲」と定め、新しい王朝(とは言えその支配領域は揚州一州にも満たなかったが)の成立を宣言したのであった。
このめでたい日を祝うため、袁術は大赦(特別に罪を免じること)を広く宣言し、臣下には官職や衣食を大盤振る舞いして大々的に祝賀ムードを演出した。
玉座に座る新皇帝に百官は万歳を唱え、寿春の街は表向き華やかな祝祭に包まれた。
だが、それはあくまでも表向きでしかなかった。
袁一族や一部の重臣を除けば、漢王朝へ公然と反旗をひるがえす行為である袁術の即位に複雑な想いを持つ者は少なくない。
実際、袁術が即位をほのめかしたところ、幾人もこれを諫める者が出ていた。
袁術はそれらの者たちを厳しく処罰して反対意見を無理やり封じ込める必要があった。
また、南陽郡を食い詰めて逃げてきたような袁術の暴政によって普段塗炭の苦しみにある庶民たちは、心からその即位を祝う者などほとんどいなかった。
彼らにとってみれば即位の祝いと称して一時的に物品を下賜されるよりも、租税を軽減してもらう方がはるかに嬉しかっただろう。
それにしても、なぜ袁術はこうまでして即位を強行したのだろうか。
それには最近彼を取り巻く情勢がことごとく不利に働いており、それを何とか打開したいという袁術の強い想いが影響していた。
一時は袁紹としのぎを削り、河北を二分して争うかのような威勢を示した袁術であったが、今思えばこのときが彼の最盛期であった。
その後は奢侈と度重なる軍事行動によって最初の本拠地の南陽郡を食いつぶし、乗っ取りをくわだてて兗州の曹操を攻めたものの撃退され、揚州へ逃げ込まざるをえなくなった。
揚州の長江以西を押さえて一時は勢力を盛り返したものの、今度は徐州乗っ取りをねらって弱体と思われた劉備と争い、これを圧倒できなかったことでかえって袁術軍の弱体をさらけ出した。
結局呂布が劉備を裏切って下邳を占拠したことで劉備軍との戦闘は終わりを告げたが、袁術が得たのは徐州の一部に過ぎなかった。
その後呂布陣営の不満分子に働きかけてその転覆をねらったが、失敗して呂布との関係を損なうだけの結果に終わった。
このように袁術の対外政策はうまくいっていない。
傷ついた威信はますます損なわれるばかりある。
また、袁術は勝手に官職を乱発して配下の心をつなぎとめてきたが、それは李傕政権によって派遣されてきた太傅の馬日磾の節を取り上げたことでかろうじて正当性を主張していた。
ところが馬日磾は3年前に死んでしまい、さすがに袁術が官職を任免するには無理が生じていた。
こうした閉塞感を一気に打破する方策として袁術は献帝の迎立をひそかに計画していたが、それも曹操が献帝を迎えたことによって潰えた。
献帝からは許へ参朝せよとの詔勅が届いたが、曹操ごときの下風に立てるかと袁術は激怒し、これを無視したことで後漢王朝を神聖視する名士たちの間で袁術の評判はさらに落ちた。
追い詰められた袁術の脳裏に浮かんだのが自らが皇帝になるというシナリオだ。
自分が皇帝になれば配下に高い官職を大盤振る舞いできるし、官職をえさに他の諸侯を味方につけることもできるはずだと信じていた。
天下を制したわけでもなくわずかに一州すら支配できていない現状では、他者から見れば狂気としか言いようのないシナリオだが、袁術は大真面目であった。
彼が属す汝南袁氏が代々三公を出してきた名門中の名門であることは再三紹介してきたが、前漢の著名な儒学者である京房が著した『京氏易』という書物を家学として教え伝えている家でもある。
この書物では「易姓革命」(為政者の徳が失われた場合、徳のある非血縁者がこれに代わること)を肯定しており、袁術にしてみればその思想を実践するだけのことでしかなかった。
彼は自分の贅沢や軍事行動が民を苦しめているなどとは夢にも思わず、名門出で徳の高い自分が悪名高い董卓によって立てられた献帝よりも皇帝にふさわしいと本気で思っていた。
かくて袁術は念願かなったものの、自らの命運を左右する重大な過ちを犯したことには気づいていなかった。