第37話 霊帝、崩ず
189年4月、後漢王朝第12代皇帝・霊帝が崩御した。
帝位にあること21年、まだ33歳の若さであった。
普通ならばまだまだ壮年というべき年齢での死はやはり予想外に早く、本人すら予想していないものだった。
死因は病死だが、若年のときからの荒淫や暴飲暴食の生活が死を早めたのは間違いない。
20年以上に渡る治世ではあるが、これといって見るべき治績はない。
むしろ後漢王朝の衰退を決定的にした、という評価の方がより的を射ているであろう。
彼の治世において名士層を政治から排除する「党錮の禁」が発せられ、宦官による政治の壟断が起こった。
寒冷化した気候という不運はあったものの、乱れた政治は非難されるべきものでしかなかった。
それは生活に苦しむ民衆をさらに苦しめる結果しか生まず、黄巾の乱などの反乱を招いた。
また、自身の家庭内の問題すら解決できず、実母である董皇太后と正妻である何皇后の嫁姑問題を放置し、結果的として後継者の決定ができぬままズルズルと先延ばしするほかなかった。
こう見ていくと、霊帝が死んだところでたいして問題はなさそうだが、ことはそう簡単ではない。
このような無能な君主でも、一応はこの国の最高権力者なのである。
ましてや、後継者が明確に決められていない状態での突然死に近かったから、問題を生まないではすまないのだ。
霊帝の病が篤くなり、誰の目にももう助からないとわかるようになると、宮中はにわかに騒がしくなった。
次の皇帝は何皇后が産んだ弁皇子か、それとも董皇太后が養育した協皇子か。
霊帝が先送りしてきたつけを一気に払わされるときが来たのであり、それはどれほどの血を代償とするかわからないのであった。
霊帝の死後まもなく、何皇后は兄で大将軍の何進の力を背景にして強引に実子の劉弁を帝位に就けた。
これが後漢王朝第13代の少帝である。
皇后から産まれた皇子の即位であるので、正統性は問題なかった。
何皇后は皇太后として摂政の地位につき、何進とともに国政を自分の手で動かそうとしはじめた。
ただ、協皇子を推す董皇太后は当然不満を持っていたので、騒動の火種はくすぶっていた。
新たな政争の幕開けは、早くも霊帝の死の翌月であった。
きっかけは豫州牧の黄琬による下軍校尉の鮑鴻の弾劾である。
黄琬は前年に復活した州牧に任じられた3人のうちのひとりであり、さっそく任地において辣腕を振るい始めていた。
そのなかで鮑鴻が豫州で行った目に余る不正の証拠をつかみ、その非を鳴らして朝廷に訴え出たのであった。
霊帝が創設した西園八校尉の一員である下軍校尉がなぜ豫州において不正を行ったのかと言えば、前年11月に鎮圧した豫州汝南郡葛陂の反乱に関係があった。
鮑鴻はこの地で黄巾軍の残党を称する反乱軍と戦い、これを見事に鎮圧したまでは良かったのだが、皇帝直属軍の司令官という権威を傘に着て現地の官民から物資や財貨をしこたま巻き上げ、金銀や銅貨の音をチャラチャラさせながら洛陽へ帰還したのである。
有能な指揮官ではあったが、鮑鴻は金に汚かった。
一部を蹇碩など有力者に「献上」することで「保険」をかけ、残りを我が物としたが今回は場所と相手が悪かった。
豫州の民が何と非難しようと大したことはないと高をくくっていたのだが、大物の行政長官である黄琬が朝廷に訴えたことで窮地に立たされてしまったのだった。
しかし、なぜ高級将校とは言え1人の武官の不正が政争の種になったかと言うと、鮑鴻が蹇碩の子分のような立場にあったからだ。
先年三輔において董卓とともに涼州反乱軍を撃退する戦功をあげており、董卓とも親しい関係にあるズブズブの董皇太后派と言ってよかった。
董皇太后派と対立する何皇太后派にしてみれば、敵方の数千の兵を指揮下に置く武将を失脚させられれば、敵の戦力を大きく削ぐことができるというわけだった。
黄琬には何皇太后派に肩入れする意図は毛頭なく、ただ純粋に不正を糺すつもりであったのだが、ことは思いもよらない展開に発展していったのである。
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「鮑鴻め、豫州でずいぶんとむさぼったらしい。無罪と言い張るのはなかなか骨が折れよう・・・いや、そもそもあやつをかばうべきなのか・・・。」
後宮において、中常侍の張譲は再び難問に頭を悩ませていた。
少帝が新たに即位したが、水面下での董皇太后派と何皇太后派の争いは一触即発の状態にあり、自分がどう振る舞うかについて迷っている。
具体的には、獄中にある董皇太后派の鮑鴻を救い出すか、それとも見殺しにするかであった。
張譲ほど董皇太后と何皇太后の争いで難しい立場に立たされている人間もいない。
張譲には張奉という養子がいるが、その妻は何皇太后の妹であった。
つまり、張譲は何皇太后や何進とは縁戚関係にあった。
しかし、近年の張譲は何進との仲が次第に疎遠となっており、純粋な何皇太后派とも言えない状況にあった。
何進は名士との交流を深め、自分の大将軍府に名望のある人物を招き入れていて、宦官への対決姿勢を強めていた。
勘のいい張譲は何進の強大化と敵対姿勢を敏感に感じ取り、何進と距離を置こうとするだけでなく、できればその力を制限したいと考えていたのだった。
そして、その具体的な方法としてとったのが董皇太后派へのひそかな援助である。
何進の対抗馬として董皇太后派の勢力が保たれることを図り、董卓など董皇太后派の武将が地位を失いそうなときはその留任に手を貸したし、武官になりたがっていた蹇碩の西園軍構想も容認して邪魔立てしなかった。
張譲としては両派の勢力が拮抗して危ういながらも均衡を保ってくれることが理想であったが、霊帝の思いがけない死によって事態は大きく動こうとしている。
張譲も去就をはっきりとしなければならないときがやってきたのだ。
「蹇碩はもちろん董皇太后さまに、趙忠は・・・どうやら何皇太后さまにつくようじゃな。いや、あやつはいつでも天子にのみ従うだけのことか。」
誰もいない部屋のなかで、ポツリとつぶやいた張譲の言葉が静かに響き、消えていく。
人払いをした張譲の自室は静まり返り、そろそろ夏も近づいているというのに、張譲は身震いするほどの冷えを感じた。
実際の室温が低いというよりも、自分の将来の分かれ目に立たされ、極度の緊張にさらされていることによるものであろう。
政争というのは生きるか死ぬかである。
ここで判断を間違えれば、張譲は命を失いかねないのだ。
「蹇碩が血眼になって鮑鴻の無罪放免のために走り回っていると聞くが・・・あの男ではかなうまい。せめてわしか趙忠が手を貸さねば、何皇太后さまの御心を動かすことはできぬであろうな。それすら、確かとは言えぬ。」
鮑鴻の失脚を画策しているのは何進らであり、何皇太后はそれほど積極的というわけでもない。
働きかけを行うならば、何皇太后に話を持っていき、少帝の詔勅を出してもらうしかないであろう。
しかしながら、董皇太后憎しの一念で凝り固まっている何皇太后の説得を行うことは難しい。
場合によっては、張譲や趙忠ですら危うい立場に追い込まれてしまうかもしれない。
「やはり・・・蹇碩らは見捨てるほかなかろう。これからは何皇太后さまに取り入り、何氏の一族を内輪もめさせるしか、手はなかろうて。」
ようやく張譲は覚悟を決めた。
蹇碩もろとも董皇太后派をすべて切り捨てるのであった。
特に難しい工作は必要なく、趙忠と同じように少帝や何皇太后にべったりと接近するだけでよい。
189年5月から6月にかけて、宮廷内の勢力図は一変した。
董皇太后は宮中から追放され、故郷である冀州の河間国(現在の河北省滄州市一帯)へと移され、間もなく急死した。
その不可解な死は何皇太后による毒殺との憶測も流れたが、誰もが何皇太后をはばかって口にする者はいなかった。
また、董重ら董皇太后派は失脚し、自殺に追い込まれた。
蹇碩もとらえられ、処刑された。
これによって宮城内外の董皇太后派は壊滅し、西園軍など董皇太后派が握っていた軍は何進の指揮下に吸収された。
その余波はもちろん地方にも波及することになり、三輔で駐屯を続ける董卓のもとへも新たな勅使が遣わされることになるのだった。