00 <後編>
それからどれほど時間が経ったのか、勉強をしたあと仮眠をとっていた私は部屋が真っ暗なことに気が付いた。あ、陽が落ちたのか。
「ん~」っと伸びをして肩を鳴らす。夜……だけど、ケーキ食べたからあんまりお腹空いてないなぁ、と思いつつ夕飯どうするか聞きに行こうと一階へ降りる。
そうしてまた二人の会話が聞こえてきたけれど、酔っ払っているのか笑声が入り混じっていた。お風呂、先に入ろうかな……と、リビングの前を通りかかった瞬間、さっきまで笑い声だと思っていたそれは、どこか奇妙な熱を孕んでいることに気が付いた。
「んっ、い、づ……」
ぎくりとして、足取りが止まってしまう。え、と目を見開き、顔が引き攣った。
う、わ。最悪だ。
足の音を鳴らさないように、また階段を上がり部屋へ戻る。なんてことだ。この世に生まれ落ちて十七年……家族の情事にまさか出会すとは思いもしなかった。
つかリビングなんだがー! 部屋に行けー!! と思うけど、姉の部屋は私の部屋の真隣だから尚更やめてほしいかもしれない。
いやでも共有スペースですることでもないだろー! と心の中でわなわなと叫び声が止まらない。枕を叩いて、布団をかぶってぎゃーぎゃー言っても仕方ない。
「……」
よし、コンビニ行こう。夕飯の調達だ。
出来るだけ静かに家を出て、コンビニに向かう。時刻は二十時を過ぎていた。……まあ世間の恋人同士なら普通の事なのかもしれない。いやでも家族のは見たくなかった!!!
そんな気持ちがせめぎ合い、おにぎりと軽いおやつを買ってぶらぶらと時間を潰しながら帰る。憂鬱だ。
家に帰って、すぐに部屋に走った。お風呂も入って出来るだけ、部屋から出ない状況を作るか。支度をして急いでお風呂場へ向かう。
お姉ちゃんたちが使うよりも先に使っておかなければ。二人が使用したお風呂など遠慮したい。お風呂から上がって、髪も軽く乾かしていく。一階になるべく居たくないせいか、支度が適当になってしまう。
よし、さっさと二階に……と思ったところで、飲み物をリビングからとっておきたいと思った。というかコンビニで買っておけばよかった。しまった。
あれから、一時間……いや二時間近くは経っているはず。もう大丈夫だろう、とリビングに聞き耳を立てると、確かに室内は静かになっていた。
そっと扉を開くと、リビングのソファで横になっている姉と、机の下で横になっている伊鶴さんがいた。
あ、寝てる。
私が当初思っていた通りだったらしく、二人はお酒を飲んでいたのか、テーブルの上には缶チューハイやビールなどがいくつか置いてあった。
姉はお酒が弱くてすぐ潰れるから、普段家ではあまり飲まない。
いやでもよかった。さっさと飲み物をとって自分の部屋に戻ろう。そう思って、忍び足で廊下の電気だけで仄かに光の差したリビングの中に入る。
窓のカーテンを閉めて、そのまま冷蔵庫に向かえば「くしゅん!」という姉のくしゃみに肩が跳ね上がった。なんだ、くしゃみか……と思いつつ、仕方ないと飲み物をとる前に一階にある父と母の寝室に向かった。
和室仕様の部屋になっているそこには来客用の毛布がある。仕方がないのでそれを二枚とって、私はリビングに戻った。
一枚を姉にかける。メイクを落とさずに眠ってしまったところを見ると、明日の朝大騒ぎしそうだなぁとなんとなく思った。母似の姉は寝顔さえやっぱり美人で、父似で日本人顔の私はやっぱり羨ましいと思ってしまう。
私もこんな風に美人だったら、もうちょっと自分に自信があったのかもしれない。過去、好きな人に「お前の姉ちゃんに興味があったから声かけたんだけど」と言われた時は哀しかった。
他にも、「あの人の妹ってところ以外で、何かいいところある?」とか「マジで姉妹? 腹違いじゃね?」とか言われた時は相手をぶちのめしてやりたくなったけど一番嫌だったのは――。
「ん……」
その人の寝息にはっとして、振り返る。そうだ、伊鶴さんにも毛布をかけないと。
ゆっくりとそちらに近づいて、肩から机の下に伸びている足元に向かって毛布を掛けてあげる。
よし、と身体を離して立ち上がろうとした瞬間、
『―――悪い。お前の姉ちゃんと付き合うから、別れて』
あの時言われた、好きな人に言われた嫌な言葉が明滅した。
そして、全ては何もかも同時に起きた。
腕を掴まれて、「み、つき」と姉の名前を呼ばれる。
ちょうど考えていた内容も内容だったせいか、盛大に肩を揺らして、「ぇ」と飛び出た声は掠れていた。
私の腕を掴む手は冷たくて、その冷ややかさにも驚いてしまう。
まるで太陽のような人だと思っていたのに、体温が冷たいのは意外だった。いや、床で何もかけずに寝ていたせいもあるかもしれないけれど。
ひとまず手を外して、違うと言う意思表示をしないと。
寝言だろうから、と手を離そうとすれば、そのまま腕を引かれて、床にもう片方の手をついてしまう。
その人の顔を覗き込むような形になり、一歩間違えれば誤解を招きそうな姿勢に私は固唾を呑んだ。下手に騒いで、起こしても仕方ない。ここは、早く離れ、ないと。
手を離そうとしても、思った以上に力が強い。これはもう起こす覚悟で手を離すしか、ともう片方の手をその人の手に合わせたと同時に、頭の後ろにその人のもう片方の手が回った。
「美月」
その口が、姉の名前を呼ぶ。
「ちが、お姉ちゃんじゃっ」
ぐ、っと力強く頭を引かれた。嘘、待って、と思った時には、既に冷たさを孕んだそれが、私の唇に重なっていた。
驚きで目を見開く。歯がぶつかった気がして、痛さもあるのにあまりの衝撃に思考が固まっていた。
な、なに、して、るんだ。これ。
思考を取り戻すのに数秒かかり、はっとして離れようとしたら、私の唇の隙間をその人の舌が、ゆっくりと、けれど強引にこじ開けてきそうになった。
「まっ、違……ぅっ、ん」
そのまま閉じていればよかったのに、否定を口にしようとした瞬間、唇、そして歯の隙間を容易く入ってきて、そのまま深く舌を入れ込むように角度をつけられる。
ちょ、っと、待って、本当に。力、つよ……!
座り込んだままの姿勢のせいで、突き飛ばして立つことも出来やしない。
「っは……っ」
わけもわからぬまま、その人の舌先が私の舌裏を刺激して、そのまま滴り落ちそうになる唾液を吸い上げられていく。
その薄暗い空気の中で響くのは、リビングの壁に掛けられた時計の針が時間を刻む音と姉の寝息、そして時々漏れる「んっ」と私の小さな吐息と、湿ったリップ音だけだ。
息が、苦しい。信じられない状況と苦しさで涙が滲む。
「は、っぁ……」
暫くしてまだ乾ききっていない私の髪を撫でるように、首元に手のひらが向かう。その人の指が肌に当たって、その部分だけ硬かった。
首元をその人の舌が軽く舐めて、そのまま甘噛みするように唇が肌を挟んだ。そして、ちく、と小さな刺激を感じて、「っ」と肩を押した。
途端、先ほどまでとは打って変わって、その人の手から力が抜ける。そして、そのまま床に身体を預けるようにして寝息を立てていた。
腰を抜かして、床に座り込んだままの私は未だ湿ったままの口元を、震えた手で覆った。
「……っ」
うそ、わ、たし……。
「んん……」
背中側のソファで眠っていた姉が寝返りを打ったので、びくっと肩を揺らして恐る恐る振り返る。
姉は深い眠りについているらしく、さっきまでこの場で起こっていた信じられない出来事など全く知る由もない。
混乱からか、酷く動悸がした。よろけながらもなんとか立ち上がり、廊下に出るとそのまま逃げるように二階へ上がった。
そして、自分の部屋に入ってすぐ、扉を背にずるずると床に座り込んだ。
どうしよう、私……わたし……お姉ちゃんの彼氏と……。
寝惚けていたにせよ、事故だったにせよ、やってはいけないことをしてしまったのは間違いない。
明日から、どんな顔してお姉ちゃんに会えばいいのだろう。知られたら、きっとお姉ちゃんは悲しむだろうし、怒り狂うだろうし、これから先、仕返しされていくのは目に見えている。
夢の中とは言え、伊鶴さんはお姉ちゃんと私を勘違いしただけだ。私が何も知らないふりをすれば、全ては丸く収まる。そのはずだ。
それでも、あんな……あんな、き、す、したことがない。忘れたくても、思い出さないようにするだけで正直やっとだ。
さい、あくだ。
その日の夜は、どうしても寝付くことが出来なかった。人生で初めて、本当に一睡もせずに朝を迎えたのは初めてのことだった。
洗面所の鏡を見て、自分の顔の悲惨さに絶望する。顔色も悪いし、隈も酷い。肌の色もさえないし、髪もぼさぼさだ。日頃からいいわけじゃないけど、こんなにコンディションが悪いのも珍しい。
はぁと溜息を吐いて、歯を磨いて、顔を洗う。
水に濡れた顔のまま、手だけでタオルを探していると、「これ、かな?」とタオルを渡された。
「あ。ありがとう……」
と、タオルで顔を拭いてそちらを見る。と、
「おはよう。柚希ちゃん、早起きなんだね」
「!? ……ったぁ!」
「え、大丈夫!?」
鏡越しにその人に気づいて、慌てて振り返ったせいで洗面所の淵に思いっきり腰をぶつける。
そんな私を本気で心配そうに見つめて、「どこか打った?」と少し眉を下げるその人に、私は「いえ! 大丈夫です」と比較的大きな声で拒否した。
見るからに痛がっているのに、まるで強がる私に「そ、そっか……」とやっぱり少し心配を滲ませて短く頷いていた。
「あ、あの、お姉ちゃんは……?」
「まだ寝てるよ、休みだからね」
「そ、そうですか」
顔が見れない。
自然を装いつつ、距離を出来るだけ離そうと壁側によれば、「顔色、あまりよくないね」と引き続きその人が優しく声をかけてくれた。
「気分でも悪い?」
「いえ、大丈夫です……」
やっぱり、忘れてるんだ……そりゃそうか。
そうだよな。この人にとっては夢の延長線上での出来事だ。
知らないふりを、しないと。平常心、平常し……ん。
と、思った瞬間、不意に身体が近づいて、思わず背中を派手に壁にぶつけた。
盛大な音が鳴って「えっ」とその人も驚いたように私を見つめている。
「だい、じょうぶ……?」
伊鶴さんは手を洗おうとして、洗面所に腕を伸ばしただけだったのに……今のは私の反応は過剰で、あまりにも不自然だ。
「わ、わたし……」
言葉が見つからない。
挙動不審になりつつ「すみません」と頭を下げてそこから逃げるように部屋へ戻った。
どうしよう、めちゃくちゃ驚いてた……。
わかってる。やっぱり不自然だった。明らか不自然だった。
暫く部屋の中に閉じ籠り、家から二人が出て行くことを待った。だけど全く出て行く様子がない。そっと廊下を覗き込むと、ちょうど姉の部屋に入ろうとしていた伊鶴さんと目が合った。
「あ……」
と声を零すと、その人のも遠慮がちに首を掻いて「よかった」と声を掛けてくれた。
「ちょうど、声をかけたいなと思ってて」
座り込んだまま身体の半分以上を部屋の中に入れっぱなしで廊下を覗き込んでいる私に、伊鶴さんはごそごそとコンビニの袋を漁る。
そして、バニラアイスを差し出して「よかったら」と差し出してくれた。
「えっ」
「……ごめんね、なんか俺、柚希ちゃんに嫌われるようなことしちゃったんだよね。お詫びになるかわからないけど」
片眉を下げて、小さく笑う。極力距離近くならないように配慮してくれているのか、アイスを差し出す手も最小限の距離感で留まっている。
「それに、あと少ししたら帰るから……休日のお姉ちゃんをとってごめんね」
申し訳ない顔をされると、なんだかこちらが悪いような気になってしまう。
いやでも、伊鶴さんにとっては訳もわからず彼女の妹から避けられているのだから、そんな顔になってしまうのも無理はないのかもしれない。
「い、いえ姉は別に……さっきは驚いて、私も、すみませんでした……ありがとうございます、このアイスは美味しくいただきます」
アイスを受け取って、土下座をするように深々と頭を下げる。
そんな私にふは、と軽く笑って「ううん、なんか俺もごめんね。ぜひ美味しく食べてください」と私に合わせて頭を下げた。
優しいし気遣いも出来るし、私ばかりがなんだかおかしい。
……昨日の夜は、何か間違いだったのかもしれない。こんな人間ができたような人に、これ以上、何を咎めようか。
今日、一日は悩むかもしれないけど、このことは胸に秘めておこう。
寧ろ、私のような人間が一夜だけでもこんな芸能人のようなイケメンに、寝ぼけながらも相手をしてもらえたことを、ありがたいと思おう。
全ては夢だったのだと、わりきってしまえばもうこの物語は終わりだ。
「じゃ、ゆず。戸締りよろしくね」
お昼は疾うに過ぎた頃、姉とその人は出かけるらしく二人そろって玄関先にいた。二人がおしゃれして揃うとやっぱり様になっている。長身の美男美女は背景がどれだけしょぼくても関係ないらしい。
「うん」
これでもう、全てを封印だ。なんでもない顔をして手を振っていると、伊鶴さんが「美月」と姉の名前を呼んだ。
「ちゃんとレポート持った? 大学ついでに寄るんでしょ」
「……あっ、そうだった。やばい。ちょっと取ってくる」
私の姉は時々抜けているところがある。急いで靴を脱ぎ、そのまま階段を駆け上がっていく。その様子を眺めていると、「柚希ちゃん」と声をかけられた。
「お世話になりました。柚希ちゃんは来週から試験なんでしょ?」
「あ……はい。い、伊鶴さんもその、サークルの合宿の計画、お姉ちゃんと立ててたんですよね……お疲れ様です」
「ありがとう。試験って一週間?」
「はい。なので部活もお休みで……」
「懐かしいな。柚希ちゃんは理系が得意だって美月が言ってたけど」
「いえっ、全然! ムラありまくりです」
「そうなんだ」
「お姉ちゃんや伊鶴さんに比べたら全然っ、むしろ教えてほしいくらいで!」
「じゃあ、教えようか?」
「……えっ」
不意打ちをくらうような提案に一瞬反応が遅れる。けれどすぐに首を振って、「いえそんなっ」と声を上げた。
「え、遠慮しておきますっ」
冗談かもしれないけれど、ちゃんと断っておかなければ後から姉に何と言われるか。「そっか」と頷きながら、伊鶴さんは笑っていた表情からゆっくり私を見て、そうして小さく「残念だな」と呟いた。
二階から、姉が階段で降りてくる足音が聞こえる。
「もしよかったなら」
その、トン、トン、トン、トン、という音がやけに鮮明に鼓膜に響いた。
「また〝出来た〟のに」
「え……」
「レポート、リビングの方に置きっぱなしだった~」
私の声と、ちょうど一階に降りて来た姉の声が重なった。
振り返ると、姉がリビングの方へ歩いていく姿が見える。
今の聞き間違い、かな。と、伊鶴さんの方を向き直そうとした瞬間、手を取られた。
昨日の、夜のように。
仄かな甘さを孕んだ、芍薬のような香りが鼻腔を擽った。上がり框から身体が落ちそうになった私の肩を、その人が簡単に支える。
気づけば、唇が重なっていた。
昨日ほど深くなく、けれど昨日とは違い白日の下、確かに重なったそれに目を見開く。
誤魔化しなど、もうどこにも存在しない。すぐに離れた先で、その人の顔を信じられない面持ちで見つめた。
「ね、〝美月〟」
わざとらしく姉の名前を呼ばれた。まるで昨日のことを、示唆するように。
突き飛ばすように身体を離す。けれどもよろけて、廊下側へ数歩下がった私と違いその人はびくともせずにそこに立っていた。
整った顔が、私は静かに見つめていた。微笑みも優しさも、どこにも存在しないその表情の中には、まるでドロドロの感情が蠢いているような気がしてならなかった。
「ごめん、お待たせ!」
狼狽えたまま、棒立ちになっている私の横を通り過ぎて、姉が急いで靴を履く。
「ううん、大丈夫」
気づけばその人はまた優しい笑顔を取り戻して、まるで普通の男子大学生を装っていた。
心臓がドクドクうるさい。身体中の血液が、警鐘をかき鳴らしていた。
「じゃ、ゆず。いってくるね」
姉が玄関から出て行く。それに続いてまたその人も家から出て、行こうとする前に「じゃあ、柚希ちゃん」と振り返った。
「またね」
その口が確かにそう動いた。
あまりにも信じがたい現実に、私は呆然と立ち尽くしたまま暫くその場から動くことが出来なかった。
悪い男が書きたくて数年前に書いた短編になります。不穏な空気の物語が好きなので、また時間がある時に続話を書きたいと思います。引き続きよろしくお願いいたします。




