00 <前編>
それはまるで
赤い果実に孕んだ毒のような
滴る前にひと齧りしてしまえば
あっという間に
奈落の底へ堕ちてしまう
こうなってしまったのは誰のせいか
こちらに向かって糸を垂らすのは誰なのか
掴んだ未来は
横たわった果実の様に
もう元には戻らない
◆ ◆ ◆
「君が、美月の妹さん?」
私、綾辻柚希ががまだ高校生の時、まるで大人びて見えたその人に私は一目惚れをした。
砂浜のような綺麗な髪色に、色の入ったファッションセンス。
長い睫毛に縁取られた宝石のように色素の薄い目は、ぱちくりと私を見つめている。
まるでモデルのようなお洒落なその人は、玄関先で出会った私に、現実世界にこんな綺麗な人っているんだ……と、軽い衝撃を与えてくれた。
「あ、ゆず。帰ってきたの? おかえり」
「あ、お姉ちゃん。た、ただいま」
私は何度か瞬きを繰り返しながら、上がり框にいる姉と靴を履いてこちらを振り返った男の人を交互に見る。
「ゆず? 美月の妹さん、ゆずって言う名前なの?」
「正確には柚希。ゆず、この人は……」
お姉ちゃんの声が気恥ずかしそうに一瞬止まる。
微細な反応ですぐにわかる。あ。もしかして。
「お姉さんと同じ大学の水瀬伊鶴です。よろしくね」
「うわ、伊鶴。なによそのキャラ」
「やめろ。第一印象大事だろ。可愛い子には印象よく見られたいんだよ」
「なんだとお前」
むっとした口調でその人を小突く姉。
隔たりを感じない二人に、私はぎこちない気持ちになって「あ、のもしかして……」と首を傾げた。
「……ごめんね、ゆず。こいつ、私の彼氏。今さっき、お母さんとお父さんに会わせたとこ」
まるでムキになっているような口調なのは、きっと照れ隠しなのだろう。
私と違って美人な姉は、見た目通り気の強い節がある。
色を抜いた茶色の長い髪を背中側に払って、まるで自然を装って目を逸らす仕草が何よりの証拠だ。……それにしても、そうか。彼氏さんか。
それもそうだ。こんな格好いい人が家にくる理由はそれしかない。
思えば、中学の時も高校の時も、男の人が家に来る理由は姉の友人か彼氏のどちらかでしかないのだから。
「そ、そっか。えと、ふつつかな姉ですが、よろしくお願いします」
「いえこちらこそ。……美月の妹さん面白いね」
「もうっ、ゆず! 変なこと言わないでよ」
丁寧に頭を下げた私に、その人も合わせて丁寧に頭を下げてくる。
居ても立っても居られないとばかりの姉の声にはっとして顔を上げると、その男の人は「ふは」と軽く笑って口を押えていた。
あ、見た目にそぐわず爽やかに笑う人なんだな。と新しい発見をして自重しろと、心の中で自分をビンタした。
危ない、またしてしまうところだった。不毛な恋を。
姉妹というのは好みが似ているのか、姉が連れて歩く人がいつも私の心を華麗に打ち抜いてくる。
何度も何度も回数を重ねていれば、それなりに耐性がついてくるというものだが、今回の人はまた一段と……。
「ん?」
「い、いえっ!」
なんてことだ。格好いい。首を傾げてこちらを見るその姿でさえ、アイドルのワンショットかのようなオーラが見える。率直に言えば、大変眩しいでございますです。
「じゃ、私。伊鶴送ってくるから」
姉が私と入れ替わりで、サンダルを履いて上がり框から降りる。
「お邪魔しました。……じゃあね、柚希ちゃん」
「あっ、はい」
手を振られたので、慌てて手を振り返す。
というか名前を呼ばれてしまった。
「おい、人の妹たぶらかすな。行くぞ」
「いや俺、別に変なこと言ってなくない?」
「あんたはオーラで誘惑してんのよ」
「何それ、どういうこと?」
閉まりゆく玄関に合わせて二人の会話が段々と小さくなっていく。
はあ、いいな。幸せそうだな。
と思いつつも、心の中で生まれかけた恋心を消し去った。
思えば、生まれて初めて好きになった人の想い人はお姉ちゃんだった。
次の好きな人も、その次の人も、そしてその次の人も。
こんな偶然あるのかって思うくらい、ずっとそんな経験をしてきた。
お姉ちゃんの彼氏が、私の好みであるのはまるで必然であるかのように。
お姉ちゃんの彼氏は、私の好きな人であることが多かった。
……いや、うん。いいんだ。別に。私はお姉ちゃんの様に美人でなければ、明るいわけでもない。
まあ恋心と言ったって見た目が好みだっただけでの話だ。
人間、やっぱり大事なのは中身だし……その上、さっきの人に至っては既にお姉ちゃんの彼氏だ。普通に考えて論外、と頭の中で繰り返しながら二階の自分の部屋へ向かった。
「あ、ゆず。明日、伊鶴が泊まりに来るから」
「……えっ」
お姉ちゃんの彼氏を見かけてから三日後のこと。
そんな話を突然切り出された。
リビングで爪を磨いていた姉が、学校帰りの私にそう告げたのだ。
「で、でもお姉ちゃん。明日ってお母さんとお父さん……」
「結婚記念日でしょ? だから都内のホテル予約してるんだって。帰ってこないみたい」
こちらを振り返って、ソファの背に腕をつく姉。絹糸のような綺麗な明るい髪が、ゆるりとその細長い腕にかかっている。
「あんたさ、友達で誰か泊めてくれる人とかいない?」
「そんなの! 急に言われても無理だよ」
「だよねえ。……ま、仕方ないか」
短く息を吐いて、姉はまた姿勢を前に向けると爪を磨いていた。
「とにかく伊鶴来るけど、あんた来週試験でしょ? なるべく勉強の邪魔だけはしないようにするね」
「……うん」
どうせ文句を言ったって仕方ない。
私の発言で、明日が変わることはほぼない。
まあいいや。せっかく綺麗な人を間近で見られるのだ。せっかくなら観賞を楽しむとしよう。
そんなことを考えながら迎えた土曜日のこと。
インターフォンが鳴っているのに、「ちょっと出てくれる?」と髪を巻いている姉に言われて「えー」と言いながら玄関まで向かう。
寝癖のついた頭を掻きながら玄関を開けて寸秒で後悔した。
「あ、こんにちは。柚希ちゃん」
ま、眩しい!
先日とはまた違った装いのその人が、優しい笑顔で私の名前を呼んだ。
明るい髪の毛を遊ばせたその耳には、シンプルなピアスが一つずつ。
大きめの緩いTシャツに、タイトなジーンズ。目の前に立っているだけなのに仄かにいい香りがするし、女の私より遥かに見目に気を遣っている。
はー……今日もめちゃくちゃお洒落で格好いい人だなぁ。
「? 大丈夫?」
「あ、いっ、いいえ! こんにちは!」
ぼさぼさの髪の毛を手櫛で整えながら、慌てて頭を下げる。
ああ、最悪だ。ちゃんとインターフォンで誰がいるか確認すればよかった。
「あ、あの、お姉ちゃんなら中にいるので……」
目を合わせぬまま、あせあせと説明する。早く部屋に戻って、身なりを整えたい。
「もしよかったら呼んで……」
とそこまで言葉を口にした瞬間、頭の左側にその人の指が当たった。
びっくりして顔を上げれば「あっ、ごめんね」とぱっと手を離す。
「なんかついてて」
その人が手のひらを私に向ける。
その上には、何やら布団の羽毛みたいな埃があって、私は慌てて「す、すみません!!」と頭を下げながらその埃を受け取った。
そんな私にその人は一度ふっと笑うと「いいえ」と目を緩く細めた。お、大人のよゆーってやつだ。まるで子供を眺めているような表情で見つめられて、ますます恥ずかしくなった。
「あ、ごめんごめん。伊鶴! 上がって!」
姉がリビングから顔を覗かせる。「えと、それじゃあお邪魔します」と小声で言って、靴を脱ぐ。そして、靴をちゃんと整える姿に、見た目に反して丁寧な人なんだな、となんとなく思った。
「外、暑かった?」
「ううん。あ、そうだこれ。よかったら食べて」
「なに? あっ、ケーキ? わざわざよかったのに」
二人の会話を微かに耳にしながら階段を上がる。その途中「ゆずー!」と姉が私の名前を呼んだ。
「伊鶴がケーキ買って来てくれたからあとで取りに来てねー!」
「……はーい」
取りに行く……ということは、また顔を合わせることになるのか。もうちょっと、恥ずかしくない程度に見た目を整えてからケーキを取りに行かないと。
ひとまず髪を整えて、服を部屋着からマシなものに着替える。
せめて姉の妹としていい印象でありたい。着替えてすぐに取りに行くのもなんだか恥ずかしいので、暫く時間を置いてから一階へ向かった。
「今年の合宿なんだけどさやっぱ例年通り長野の方でいいんじゃないかなー?」
「それなんだけど一応施設側にも連絡してみたらまだ空きはあるみたいだから予約する時は連絡するよ」
リビングに入る前、姉とその人の会話が聞こえてきた。
昨日の夜、同じサークルで知り合ったんだと言っていたから、会話の内容は大方サークル関連の話だろう。
なんだか邪魔してしまいそうだな、と思いながら扉に手をかけたところで立ち止まっていると、磨りガラスに私の姿が映っていたのだろう。
「あ、美月。柚希ちゃんじゃない?」
気づかれてしまった。このままここで立ち止まっていても、ただの盗み聞きに思われかねない。扉を開け、そのまま中に入ると「あ、ゆず」と姉が私の名前を呼んだ。
「邪魔してごめん……ケーキ、取りに来たんだけど……」
「冷蔵庫の中にあるよー」
姉から少し視線をずらせば、その人が私に向けて優しく微笑んでくる。イケメンだ。はー…もしもこの人がお兄ちゃんになったら、この目の保養を毎日味わうことが出来るのか。それは確かに……いいな。
「ん? なに?」
姉に言われてはっとする。「ケーキ! 何があるのかなぁっ……て!」とぎこちなく頭を掻けば「見たら?」と当然のことを言われて、アハハと笑いながらキッチンへ向かった。
冷蔵庫からケーキの入ったボックスを取り出し、中を見るとショートケーキやモンブランやタルト、オペラなどが入っていた。
「美月、ちょっと休憩する?」
「うん、そうする。あ、せっかくだし、うちらもケーキ食べよっか」
「俺が持ってくるよ」
立ち上がって、ケーキの箱を覗き込んでいた私の近くまでやってくる。
は、と顔を上げると、同じように箱の中を眺めて「好きなのあった?」とその人は首を傾げた。
「え?」
「わからなかったからとりあえず種類はバラバラで買ってきたんだけど……あ、もしかして甘いのダメだった?」
「い、いえっ、大好きです!」
「そう、よかった」
咄嗟に答えた私に、その人はほっとしたように微笑む。
キラキラとしたエフェクトまで顔の周囲に見えた。ワックスでふわふわに遊ばせた明るい髪の毛も相俟って、王子か天使もしくはそれに準ずる何かに見えてしまう。とにかくこの素晴らしいご尊顔を拝める内に、目に焼き付けておこう。
「あ。伊鶴。柚希はショートケーキ派だからー」
こちらの会話が聞こえていたらしい姉が、遠くから声をかけた。
「そうなの?」と振り返るその人に姉は「そ」と短く答えた。
「いつもそれ食べてる、ね? ゆず」
「……へえ」
姉から私に視線を移す。私は一瞬、俯きそうになったけれど「うん」といつものように頷いた。
「あ。伊鶴さん、姉はタルトが好きなんです。私は余りもので大丈夫なので、伊鶴さんも好きなの持っていってください。買ってきてくれたのは、伊鶴さんなので」
「……そう」
静かに頷いたその人の前に、お皿とフォークを二つずつ出す。
タルトがそのお皿の上に乗るのを見届けていれば、「じゃ、はい」とその人はタルトの乗った皿を私に差し出した。
「……え?」
「たまにはどう?」
「で、でも」
「タルト、美味しいよ」
遮るように言い切って、その人はオペラをお皿に乗せると姉へ渡しに行った。
「はい、美月。オペラ。ここのやつ有名だから、凄く美味しいよ」
「へえ、そうなんだ~! ありがと」
絶対タルトがいいと言うと思っていたのに、その人、伊鶴さんの言うことを意外とすんなり聞き入れている姉に驚きが隠せない。
そして、「飲み物も持ってくるよ」と再び戻って来た伊鶴さんは棒立ちになっていた私に「食器はここからとっても大丈夫?」と訊ねた。
「あっ、はい!」
弾かれたように返事をする。
どうして、タルトをすすめてきてくれたのだろうか。好き、なんて一言も言っていないのに。
昔から、姉と好みが被ってしまうせいか、本当に好きなものを言い出せない時がある。まさにケーキの好みが良い例だ。
姉は真似されることを嫌うし、譲るということもなかなかしない。けれど言い合ったところで結果は目に見えているし、親にとっても好き嫌いを明言している姉の意見を優先することが多かった。
いつだって曖昧ではっきりしない下からの意見は、強い主張の元では隠れてしまうものだった。
タルトをじっと見下ろした後、ふと伊鶴さんの方を見れば、その人は私を眺めていて、目が合うとふ、と口元で笑った。
まるで見透かされたような微笑みに、恥ずかしさが全身を襲う。
「好き? タルト」
そのままカップを取り出し、小声で私に訊ねてくる。
首元についた細いネックレスや、指についた指輪が視界の端に映る度、遠い世界の人だとわかっているのに、いちいちときめく。
二重幅の広い、ほんのちょっと上がった目尻にすっきりとした高い鼻。
口端がきゅっと上がった血色のいい唇に、綺麗なきめ細やかな肌。衝動的に女装させたくなるような顔をしていて、近づくだけで心拍数は爆上がりだった。
相手は姉の彼氏相手は姉の彼氏相手は姉の彼氏……と呪文のように心の中で唱えて無心を貫こうと決意する。
「さっき見てたから、そうかなって」
なのにその度に、優しく微笑みかけてくるのは反則としか言いようがない。
私は思いっきり自分の両頬を叩いて、深呼吸をした。伊鶴さんはびくっとしていたけど構わず無心を貫いた。
「ありがとうございます。気を遣わせてしまい……こちら紅茶です。伊鶴さんも好きなケーキ、自由に選んでくださいね。では!」
頭を下げて、飲み物とケーキを持ってそそくさとリビングから出て行く。姉が「何事よ」と私を見ていたけど、気づかない振りをした。はあ、イケメンは罪だ。
それなのに気も遣えるとは何事だ。顔がいいと来たら性格は悪くした方がいい。
そこで帳尻を合わせてくれないと世の中不公平が成り立ってしまうじゃないか。
幾度となく溜息が出る。部屋に戻って食べたタルトは格別に美味しかった。




