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七賢者の涙  作者: 相川晴(HAL)
第二部 知恵の実は幸福をもたらすか
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第10章 灰色④

 腕の力を抜き、体を少しだけ引いた。

 リンは追ってこなかった。背中に回されていた腕が、静かにほどかれ、体重を壁に戻した。小さく、息を吐いて。

 でも、人一人分あいたその距離、その空間が、とても寒く感じた。

 手が届くその距離で、灰色の瞳が、開いていた。何も見えていない目が、アルティの気配だけを追っていた。


 その目を見た瞬間、寒さとは別の何かが、胸の奥を掴んだ。

 痛々しいとか、かわいそうだとか、そういうことではなかった。

 ただ、この目が、自分を映していないことが、たまらなく寂しかった。


 手を伸ばしていた。

 リンの顔に。

 両方の掌で、リンの目を覆った。

 冷たい指先が、リンの瞼に触れた。薄い皮膚の下で、眼球がわずかに動くのが感じられた。長い睫毛が、アルティの掌をくすぐった。


「アルティ、さん?」


 リンの声が、小さく揺れた。

 手のひらの中の瞼が、温かい。体温が移っているのだろうと思った。


「あの、もしかして、目を揉もうとしてません?」

「してない」


 うっかり、アルティは吹き出した。


「……どうかしました?」

「怖い?」

「怖くはないんですが——アルティさんの表情が見えないのは、不安です」

「……何考えてるかわからなくて?」

「——そうですね。思ったより、視覚に頼ってたなって、今、思ってます」


 目が見えないことじゃなくて、自分の表情が見えないことを不安に思うのか、この男は。

 ——見られなくてよかった。今の感情を、読まれたくない。

 アルティは、リンの瞳を掌で包んだまま、リンに顔を寄せた。

 目を隠した指の下から、リンの鼻筋が見えた。唇が見えた。


 その時、リンの手が動いた。

 アルティの手首に、リンの指先が触れた。

 振りほどかれるのかと思ったが、違った。両方の手首をリンの手がそっと包んだ。どかそうとするのでもなく、ただ、そこに触れていた。見えない代わりに、アルティがそこにいることを確かめるように。


 あ、と思った時には遅かった。

 指先が、手首の内側で止まった。

 気づかれたかもしれない。脈が、速くなっていることに。


「——アルティさん」


 リンの声は低かった。わかっている、名前を呼んだだけだ。それだけなのに、首筋から熱が昇った。


「黙ってて」


 言うのとほぼ同時に、唇に——唇で、触れた。

 自分から。

 冷たかった。

 洞窟の空気に冷えた唇は、触れた瞬間に、奥から熱が滲んだ。

 ここには葡萄酒がなくて、だからも何一つ言い訳ができない。自分を動かしているものの正体もわからない。

 リンの手首を包んでいた手に、ほんの少しだけ力が入るのがわかった。


 ごめん、リン。

 私の不安を消すのに、あなたを利用している。

 アルティの手の中で、リンの瞼が震えていた。睫毛が、掌に何度も触れた。


 どのくらいの時間だったのかわからない。多分、長くは、なかった。

 唇が離れた。

 アルティの手は、まだリンの目を覆っていた。

 手の間から、リンの唇が見えた。何かを言いかけて、やめて、もう一度開きかけて——


「——あの」


 リンの声が、妙に上ずっていた。


「アルティさん」

「……なに」


 自分の声も震えていた。


「ええと、手を——どけてもらえますか」

「やだ」

「いえ、そうじゃなくて、見えるんです」


 アルティの思考が、止まった。


「……え?」

「いや、ですから——目が。見えます」


 アルティは一瞬止まり、それから恐る恐る手をどけた。

 リンの瞳が、そこにあった。


「——色が……」


 灰色ではなかった。

 翡翠だった。


「色?」

「目の色が、戻ってる」


 いつもの、深い緑の瞳が、核晶の青白い光を映して、アルティをまっすぐに見ていた。

 そして、色よりもなによりも、その瞳孔が、自分に向いていた。


「何色だったんです?」

「知らないの?」

「自分じゃ見えませんしねえ」

「灰色だったよ」

「へえ……」


 リンは瞬きを繰り返した。自分の手を顔の前にかざし、指を動かして確かめていた。それからアルティを見て、壁を見て、通路の奥を見て——もう一度、アルティを見た。

 それだけのことが、嬉しかった。じわっと目の奥が熱くなって、慌てて瞬きをする。泣くようなことじゃない。リンは治るって言ってたじゃないか。


「よかったね」

「ええ。でも、なんででしょうね。今回はこれまでになく早い」


 リンの困惑は本物だった。だが、その直後に、表情が変わった。

 口元に手を当てて、黙った。

 翡翠の瞳が、アルティの顔から離れて、自分の手に落ちた。それから、アルティの手を——さっきリンの瞼を覆っていた手を、見た。

 それからアルティの顔を——アルティの唇を。

 何かを、考えている。

 リンの指が、自分の唇の上で止まったまま、動かなかった。目が細くなっていた。考え事をしている時の目だ、とアルティは思った。だが、いつもその考えは、読めない。


「リン?」

「……いえ」


 リンは手を下ろした。

 考えていたことを飲み込むように、一度、目を閉じて開けた。翡翠の瞳は、もういつもの穏やかさを取り戻していた。


「わかりません。たまたまかもしれませんし」


 アルティはリンの顔を見ていた。また何か、隠したんじゃないだろうか。ただ、こう言う時のリンは、問い詰めても話してくれない。言う気になるのを待つだけだ。


 いや、ちょっと待て。

 今、リンの目が見えているということは——

 リンの目に、自分が映っているということで。

 手が届くその距離で、見られていい顔はしていない。

 じわり、と後ろに下がろうとした。


「……どうしました?」

「や、ちょっと」


 リンを直視するのが辛くなって、目を逸らした。


「……まだ少し、目がぼんやりするような……」

「え」


 顔を上げて目を見る。変わらぬ、翡翠の瞳。


「——もう一回キスしたら、しっかり治る気がするんですよね」


 リンが言った。

 穏やかな声で。まじめな顔で。


「本当に?」

「…………」


 リンの口元が、堪えきれないように、震えた。


「リン」

「…………」

「嘘だね?」

「……嘘です」


 リンが笑った。

 声を出して笑った。

 目を細めて、肩を揺らして、本当におかしそうに笑った。

 その笑い声が狭い通路に響いた。

 アルティも笑った。

 笑ってしまえば、さっきまでの緊張も、気まずさも、胸の奥の震えも、全部まとめて溶けていった。


「最悪」

「ごめんなさい」

「最悪だよ、リン」

「本当にごめんなさい。でも——」


 リンの笑いが収まった。目元にまだ笑みの残った顔で、アルティをまっすぐに見た。


「——嬉しかったので」


 不意打ちだった。

 軽口の延長だと思っていたのに。笑っていたのに、その言葉だけが、冗談の温度ではなくて。


「昨日散々キスしといて、今更嬉しいもなにも……」

「全然違いますよ。自分からするのと、アルティさんからされるのは」

「黙って」

「……おしまいですか?」

「黙らないと置いていくよ」


 アルティは立ち上がって、脚の砂を払った。


「帰ろう。頑張れば今日中に帰り着けるから。動ける?」

「はい」


 リンも壁に手をついて立ち上がった。

 今度は手を引く必要はなかった。

 二人は並んで歩き出した。

 足音が二つ、通路に響いた。

 アルティは前を向いたまま歩いた。すぐ斜め後ろにリンの気配。

 さっきと同じ。でも、全然違う。

 核晶の光が徐々にまばらになり、通路が暗くなっていく。

 アルティが頼むより先に、リンの杖に灯りが灯った。


 洞窟の出口から差し込む光が見えた。

 白い光だった。外はまだ昼だったのだ。

 アルティは目を細めた。暗い通路に慣れた目には、外の光がまぶしかった。

 振り向くと、リンが、同じように目を細めていた。

 見えている。ちゃんと、まぶしそうにしている。

 そのことが、ただ嬉しかった。

 いろいろなことは、あとで考えればいい。

 今は——


「夜はまともなご飯食べられるかな」

「まずは、街につかないと、ですね」

「門限には間に合うと思うよ?」

「体が本調子じゃないんですよね……」

「そうなの?」

「まだ少し。とにかく帰りましょう」


 二人は洞窟を出た。

 冷たい山の空気が頬を叩いた。木々の間から差し込む午後の光が、足元の落ち葉を金色に染めていた。

 アルティは大きく伸びをして、その隣で、リンが小さく笑った。

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