第1章 杖のない魔法使い①
八日かけて追いかけた盗品の木箱は、すべて空だった。
アルティは舌打ちしたい気持ちを噛み殺して、最後の木箱を覗き込んだ。
何かの焼印がついた箱の、無惨に破壊された蓋。わずかに残った大鋸屑が、そこで嘲笑うように散らばっている。
——やっぱり遅かったか。
依頼された品が商人の手元にあることを突き止め、輸送先で盗難に遭い、その盗賊の居場所を探し当て——
やっと追いついたと思ったのに、これだ。
洞窟の中は薄暗く、じめついた空気が漂っていた。鼻に届くのは、湿った岩と苔の匂い。
入口こそ天然の洞窟のようだったが、奥に進むにつれて人の手が入っているのがわかる。石段は削られた跡があり、壁に残った松明の燃えさしが、まだかすかに煙を上げていた。足元には干し肉の残りかすや、空になった酒瓶が転がっている。
生活の痕跡はある。だが、人の気配はない。
空気がどこか澱んでいて、あまり長居をしたいとは思えなかった。
いや、まだだ。もしかするとなにか手がかりがあるかもしれない。今、盗賊はいないようだが、運が良ければ取引の証書でもあるかもしれない——そんなものがあるとも思えなかったが——。
短剣を握り直し、奥へ進んだ。アルティの身長の半分ほどもある背中の弓が岩肌に触れないよう体を捻り、狭い通路を抜けると、突き当たりに木の格子で仕切られた空間があった。
中に、誰かいた。
アルティの手が反射的に短剣の柄を握り直し、足を一歩引いた。盗賊の仲間が残っていたか——
短剣を鞘から抜きかけたところで、手が止まった。
格子の向こうに見えたのは、もっと異質なものだった。
間違いなく、人だ。壁にもたれて座っている。だが、盗賊には見えない。
薄暗い中でもわかる、淡く光を纏ったような緩やかに波打つ金の髪。汚れた石壁を背にしているのに、そこだけ空気の色が違って見えた。乱れた長衣に砂と埃がついていてもなお、肌は白磁のように透き通っている。カンテラの灯りが照らす横顔。伏せた目を縁取る長いまつ毛が、頬に淡い影を落としていた。
宗教画から抜け出してきたような風貌だった。少なくとも、こんな場所にいていい人間ではない。
おそらく、男だった。年齢は——わからない。二十代にも、もっと上にも見える。
翡翠の瞳がこちらを捉えた。驚いた様子はなかった。ただ静かに、こちらを、見た。
ゆっくり瞬きをしながら、アルティを頭の先からつま先まで、全部見ていた。
値踏みされている、と思った。
目の前の人間が何者なのか、自分の小柄な体と、黒い革の鎧と、手にした短剣を、この男は見ている。
敵なのか、味方なのか——
短剣を握っていた手が、いつの間にか緩んでいたことに気づき、もう一度柄を握り直す。
「……誰?」
言葉を発するのに、一瞬、間が空いた。口がやけに乾いていた。
見れば、それは普通の部屋ではない。錠前が付いている。牢屋のようだった。
「さらわれた人?」
美しい男は、桜貝のような唇を開いた。
「ああ……ええ、まあ、そうですね」
アルティは眉を寄せた。どうにも気の抜けた返事だ。
「助けた方がいい?」
この場にはひどく似つかわしくない質問だと、自分でも思った。しかし、男には焦った様子がまるでないのだ。
「そう、ですね。一般的には」
低く穏やかな声だった。返事としては奇妙だったし、声に怯えや焦りもない。
「ええと——好きでそこにいるわけじゃない、のよね?」
念のため、確かめるように聞いた。
「それはそうですね。別にここに居たいわけでは」
どうにも人を食ったような返事をする。状況に動揺しているのか、それとも別の理由があるのか、その声からは判断がつかなかった。
いずれにせよ時間はない。盗賊がいつ戻るかわからなかった。
アルティは短剣の柄から手を離すと、腰の道具入れから細い金具を取り出して、錠前に差し込んだ。
粗末な造りだ。手探りで内部の構造を探り、引っかかりを見つけて回す。
かちり。
小さな音を立てて錠前が外れた。格子を引き開けると、男はゆっくりと立ち上がった。
背が高い。アルティより頭ひとつ分は大きかった。痩身だが病的ではなく、長く座っていた割に、立ち上がる動作によどみがない。そう長く監禁されていたわけではなさそうだ。
暗い色のマントに、乳白色の長衣。一見して魔法使いに見えるが——
「魔法使いが——なんで盗賊に?」
アルティが思わず口に出したのも仕方のないことだった。魔法使いが盗賊に捕まるとは、あまりにも考えにくい。
「まあ、ちょっと油断をしまして、杖を、ですね……」
長身の男は手を広げてみせた。その手には杖はない。身につけている様子もなかった。
「杖を取られたの?」
男は肩をすくめてみせた。
「不覚にも」
「盗賊相手に?」
「不意打ちされたらどうしようもなくないですか?」
なるほど、杖を取られては魔法使いは無力だ。それで盗賊如きにあっさりと捕まり、牢に入れられたのだろう。この見た目であれば、相当の値段で売れると判断されたのだろうか。今ごろ運搬用の荷車でも引いてきている頃なのかもしれない。
「じゃあ、盗賊は何人いたかわかる?」
「僕を捕まえたのは二人でしたが……話の様子では、まだ仲間がいそうでした」
そうなると、それなりの人数の仲間がいることになる。この狭い空間で鉢合わせするのはまずい。
なんにしろ、ここにはもう何もない。時間もない。
「ひとまず出よう。やつらが戻ってきたら面倒になる」
「そうですね。——ありがとうございます」
男は低い扉を身を屈めて出ると、顔を上げて周囲を見渡した。
「他の部屋はありましたか?」
「ここが一番奥で、ここまでざっと見て来たけど、盗品みたいなのはなかった。あなたの荷物も多分……なかったと思う」
「ああ……」
男は小さくため息を漏らした。
「予備の杖とかはないのよね」
「もしあれば、もう逃げてますね」
まあ、そうだ。それならそもそも捕まってないだろう。
「あなた、魔法以外、なにか戦ったりできる?」
「からっきしですね」
魔法使いは、魔法を習得するだけで十年以上を費やし、更にそこからも日々の訓練が欠かせないと聞く。魔法使いに魔法以外の事を求める者がそもそもいないのだから、アルティの問い自体、少々的外れなのであるが、あっけらかんと言われると、どうにも調子が狂う。
「わかった。とにかくここから出よう。ついてきて」
男は頷いた。
来た道を戻る。アルティが前に立ち、男がついてくる。
アルティは違和感に気づいた。
足音がほとんどしない。振り返ると、男は長身の体を器用に屈ませて張り出した岩を避けたところだった。からっきしと言う割には、旅慣れている者の歩き方に見える。
男は目線だけ動かして周囲を見回していた。奪われた荷物がないか探しているのだろう。
「荷物は?」
「なさそうですね」
小さく息をついたが、そこまで落ち込んでいるようにも見えなかった。
「あたしはアルティ」
洞窟の出口が見え始めたところで、振り返らずに名乗った。
「リンです」
「リン。一応確認するけど、魔法は使えないのよね?」
「杖もですけど、全部持ち物取られてますからね」
「全部か……」
アルティは小さく息を吐いた。少々厄介な拾い物をしてしまったかもしれない。




