初恋
飛ぶようにして数年が過ぎた。
ムザブは『鳥籠』に最後に入ってきたある女に、不思議なくらいに気が引かれていた。
リーセルブルユと同じ境遇である、ラーレルカイトウ近くの村から送られてきた彼女ハシイは、ムザブより五つ年上であった。
ある日ムザブが領主の館からいつものように生傷まみれで帰ってきた時、彼女は『鳥籠』の食堂で、せめてもの慰めとして与えられた自由の一つである娯楽の本を読んでいた。
帝都ガルヴァリーシャナから来たという行商人から、今日買った物だという。
「ねえ、ムザブ。 帝都って知っているわよね?」
ムザブは呆れた。
「このガルヴァリナ帝国の最大の都にして首都のガルヴァリーシャナだろ? 国の政治・経済・物流の中心地で学問も盛ん。 すぐ隣をガルヴァリー大河が流れている。 人口は百万人以上で平民がその大半を占めているが、貴族が私有地の大半を所有していて……」
まるで実の姉のようにやや傲慢な言い方で、ハシイは褒めた。
「よく出来ました」
自分で怪我の手当てをしながらムザブは呟く。
「何だよ、ハシイ。 ……どうしたんだ?」
本を閉じて、ハシイは軽く笑ってムザブを見つめた。
「一度で良いから帝都に行ってみたかったのよ。 死ぬ前に」
今度の『祭典』は来週にまで迫っていた。
ムザブは呟く。
「……俺、早く大人になりたいよ。 大人になったら少しは【天竜族】とも戦えるようになるだろ」
屈従して戦わない道を選んだことで、誰も彼もが辛酸をなめている。
リーセルブルユのような田舎では、女だって大事な働き手だ。
力仕事は出来なくとも、仕事は沢山ある。
その働き手を奪われ続ければ、いずれ、ここでの生活は成り立たなくなる……。
「馬鹿じゃないの? 人間が【天竜族】に敵う訳が無いのに。 ムザブに自殺願望があったなんて知らなかったわ」
呆れた声で言ってから、ハシイは本を閉じてムザブに近付くと、まるで幼い子供相手にするように人差し指で彼の鼻をつついた。
「だけどさ!」
それで納得なんて出来ない。
それだけは、絶対に出来ない!
反抗的、もしくは獰猛な態度でムザブが言い返そうとした時。
「私達は諦めも付いたし、覚悟も出来たわ。 だけど……」
明るく笑ったまま彼女は、ふと言い淀んだ。
しかし、もう己に残された時間がほとんど無いことを思い出して、彼女はムザブに接吻をしたのだった。
「!?」
ムザブはハシイを押しのけようとしたが、ハシイはムザブをありったけの力で抱きしめた。
「お願い」
やっと唇が離れた直後、ムザブの耳元で熱い吐息が囁く。
「今夜、部屋の鍵を開けておくから」
「でも!」
「処女じゃなきゃ駄目なんて決まりは無いのよ」
「嫌だ。 だってあんまりだ、ハシイがあんまりにも、」
悲惨では無いか。
ハシイは目に涙を溜めてムザブに告げる。
「どうせ地獄に堕ちる私に、最期に幸せを頂戴よ……!」
ああ成る程、これが地獄か。
ムザブは改めて理解した。
地獄に堕ちる者に幸せを体験させることの惨たらしさが分からぬほど彼は子供では無い。
けれどこれから地獄に堕ちゆく彼女の人生最期の希望を叶えぬ、それも同じくらいに残酷だとも彼には分かっていた。
ああ、血生臭いばかりの地獄だ。
ここは日常の皮に覆われた生き地獄だ。
どちらに転んでも進んでも退いても、ハシイはその地獄にまっしぐらに堕ちるのだ!
ムザブは頷くしか出来なかった。
頷くしか出来ない自分を呪い、八つ裂きにしたくなった。
ムザブは死ぬまでにそれこそ星の数ほどの女を抱いたけれど、処女の相手だけは徹底して嫌がるようになる。




