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黎明のデシリア  作者: 中條利昭
第十一話「風鈴」

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第十一話「風鈴」-1-

「——というわけだ」

 ジンの放った言葉は、冷たい霧のように広大な玉座の間へ広がっていった。禍々しい仮面の下から漏れる声には、感情の機微を削ぎ落とした、絶対的な静寂が宿っている。

「承知、しました」

 ナーサはしぶしぶと言った様子で、うやうやしく頭を下げた。ジンに告げられた作戦は、彼女にとってけっして喜ばしいものではない。しかし、主君の命令は絶対だ。

「もう下がってもいい」

 ジンは無機質な宣告と共に腰を浮かせた。漆黒のマントが、重厚な石床を撫でる乾いた音を立てる。

「待って」

 ナーサの唇から零れた微かな制止に、ジンの身体が凍りついたように静止した。マントの裾が不自然な形で止まり、広間を支配する静寂が一層深まる。

「下がってもいいってことは……まだ、下がらなくてもいいんだよね」

 彼女は左右で色の異なるウルフカットの毛先を指先で弄り、玉座の主を縋るような上目遣いで見つめた。

「ねえ、ジン。久々に、もう少し近くに寄ってもいいかな? 今はふたりきりだし……いいでしょ?」

 甘えるような、けれどどこか祈るような響きを含んだ問い。

 ジンは拒絶の言葉を口にすることも、許しの首肯を返すこともなかった。ただの石像のように、虚空の一点を見つめ続けている。ナーサはそれを沈黙による肯定と受け取り、迷いのない足取りで階段を一段、また一段と上り始めた。

 石床を打つ靴底の微かな震動が、静まり返ったドームに波紋を作っていく。ジンの目前で立ち止まった彼女は、マントの裾から覗く彼の黒い手袋越しの掌を、自分の両手でそっと、壊れ物を扱うように包み込んだ。

「……ねえ。ちゃんと夜は眠れてる? それとも……」

 ナーサの瞳に、深い憂いの色が差した。

 ジンの浅い呼吸が、かすかに聞こえる。

「君が気にする必要はない」

 突き放すような一言。

 心がチクリと痛む。それでも、彼女は顔に微笑みを繋ぎ止める。

「覚えてる? 昔、『君が大人になったときに、君の気持ちが変わっていなければ』って約束してくれたこと」

 ナーサは、自身の吐息が仮面の表面を曇らせるほどの距離まで顔を近づけ、逃げ場を塞ぐように彼を覗き込んだ。

「今も、変わってないよ」

 肋骨の裏で早鐘が鳴り響き、全身の血液が沸騰していくような熱が彼女を支配した。視界がジンの漆黒に塗り潰され、周囲の風景が遠ざかっていく。

「あたし、まだ未成年だけど……もう大人って名乗っても悪くない歳だと思う。だからせめて、一晩だけでも……一緒に過ごせないかな」

 彼女の指先に、わずかな力がこもる。手袋越しであっても、彼に触れていたい。彼の一部でありたいという切実な渇望。

 しかし。

 次の瞬間、ナーサの指先から、確かな体温が奪い去られた。

 ジンがその腕を、乱暴に跳ね除けたのだ。

 触れ合っていた場所が急激に冷え込み、拒絶の事実が重くのしかかる。ジンは彼女の献身を泥のように見捨て、背中を向けた。

「下がれ」

 冷徹な一言が、広間の壁に跳ね返って彼女を打ち据える。

「……そうだね。ごめん、変なこと聞いちゃって」

 彼女は慈しむような笑みを浮かべ、自らの首元に固く結ばれた紫色のネクタイをそっと指でなぞった。


           ◆


 日曜日のお昼。

 鼻歌を歌いながら、駅のトイレで染谷瑞季そめやみずきは手を洗っていた。

「財布が軽くなるほど心が満たされていく。ああ、私が吟遊詩人なら、この気持ちを歌にすることでしょう」

「何を言ってるんだニャ」

 バッグの中からヒナの声が聞こえた。

「瑞季は財布が軽くなることで心が満たされたんじゃなくて、後先顧みず心を満たした結果、財布が軽くなったんだニャ」

「うるさい」

 ヒナのコンパクトミラーを取り出し、指で弾いた。

 ヒナに説教してやろうと思ったが、トイレに誰かが入ってきたため口を塞いだ。その人が個室に入っていったのを見て、瑞季はコンパクトミラーを口元に寄せ、「家に着くまで黙っててね」と囁き、バッグに投げ入れる。

「ぼくのおやつ代が……」

 嘆く声が聞こえた気がしたが、無視した。


 瑞季は好きなアニメのイベントに来ていた。出演声優によるトークイベントやラジオの公開収録を堪能した後はショップで散財し、今に至る。財布の中身は今月のお小遣いで生き残れるギリギリの金額と交通費だけを残した状態だった。

 もちろん悔いはないし、ヒナのおやつ代もない。

 とても気分がよかった。今なら道ゆく人々に声をかけ、アニメを布教することだってできそうだった。もちろん、人見知りの彼女がそのようなことをするはずもなく、彼女はまっすぐ駅へ帰っていた。両手に荷物を抱えている上、七月の蒸し暑さから早く解放されたかったので、余計な寄り道はしない。

 渡ろうとした歩行者用信号の青が点滅し始め、瑞季は立ち止まる。数多の車両が彼女の目の前を通り過ぎていく。スマホを見たくなったが、両手が塞がっているので止めた。

 駅まであと五分くらいかな、と思ったとき。

「あのー、すみません」

 右肩に声をかけられた。

 目を向けると、そこにはスラッとした金髪の女の子が立っていた。瞳は青色で、見るからに西洋人だった。背が高いため大人かと思ったが、顔にはあどけなさが残っている。すらっとした身体と白いブラウスと首元の黒いリボン、黒いスカートも相まって、才色兼備の清楚な留学生といった風体だ。艶のある金髪は軽くパーマが当たっており、ふわりとしている。

背筋を伸ばしてすらっと立つ姿から、瑞季はメイドを連想していた。周囲の景色から浮いて見えるほどの可憐さは、まるでアニメの世界からそのままやってきたかのようだった。

「はい、なんでしょう——じゃなくて、め、めいあいへるぷゆー?」

「ええっと、ここに行きたいのですが、どちらに向かえばよいのでしょうか」

  流暢な日本語が返ってきて、瑞季の耳が赤く染まる。また、少女の風鈴のような透明感のある声を聞き、声フェチの瑞季は心の中で「声めっちゃっ!」と叫んでいた。

 少女が差し出したスマートフォンの画面には地図アプリが開いており、画面の中心には彼女たちの立つ地点が青い点で表示されていた。いくつかの建物や記号が表示されている縮尺で、少女は画面の端を指差していた。

「ここなら……」

 瑞季と向かう方角は同じだった。駅を逆側に出てすぐの、犬の銅像が立っている場所だ。慣れている人には分かりやすい場所だが、画面内には似たような名前の駅が三つも存在しているため、地理感のない人には難易度が高いに違いない。

 待ち合わせかな、と思いつつ、機嫌のいい瑞季は微笑んで提案する。

「私といく方向同じなので、案内しましょうか?」

「いいのですか?」

「いいのですよ」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 その後、信号が青に変わるまで会話はなかった。瑞季は必死に心の中の引き出しから会話デッキを集めようとしていたが、なかなか見つからないまま信号が青になる。交差点を歩きながら、ようやく瑞季は質問した。

「日本語お上手ですね」

「ありがとうございます。話すことはできるのですが、読み書きは苦手で……」

「へえ、そういうこともあるんですね」

 地図アプリを指差して「ここに行きたいのですが」と言っていたのは、きっと字面を知っていたものの読み方が分からなかったからなのだろう。

「どちらのご出身ですか?」

「カナダの出身です」

 少女はやや上を向き、教科書を読むように言った。

「カナダかあ。行ったことないなあ。日本だって本州しか行ったことないけど」

「日本と比べて、すごく寒いところです」

 瑞季は世界地図を思い浮かべる。カナダはアメリカの北にあったはずだ。位置情報以外何も知らなかったが「あそこは寒そうですよねえ」と適当に頷く。

「おいくつですか?」

「十四です」

「え! 同い年じゃん!」

 瑞季は急に敬語を外して彼女の顔を見上げる。あどけなさはかすかにあるが、表情も話し方も大人っぽいので、まさか同い年だとは思わなかった。

「中二?」

「ええっと、はい、そうです」

「留学か何かで日本に来てるんですか?」

「はい。日本の文化にとても興味がありまして」

「ほうほう」

 まさしく日本の文化の結晶が我が手にあるのですよ、とばかりに瑞季は肩を回してアニメグッズの入った紙袋を揺らして強調する。

 それを目に入れたのか入れていないのか、少女は「特に日本のアニメには興味がありまして」と続けた。

「なんですと!?」

 少女は有名なアニメを三つ挙げた。どれも海外で人気があることで有名な超人気作だった。

「ご存じですか?」

「もちろん存じてますよ! 有名ですからね! エアプもありますけど」

 瑞季の鼻息は少しずつ荒くなり、口から出る言葉は早口になっていった。

 そのまま勢い任せで、現在手にしているグッズのアニメを布教しそうになるが、そこで瑞季は「いかんいかん」と深呼吸して自分を落ち着かせる。教えてほしいとも言われていないのに自分勝手に布教してしまうオタクはオタクとして三流なのだ。

「落ち着け、落ち着け私……」

「なにかおすすめのアニメはありますか?」

「これなんてどうでしょう!」

 食い気味に答えながら、目にも止まらぬ速さで瑞季は紙袋を少女の前に掲げる。

「この『スリー・デイズ・バック』なんてどうでしょうか! 実は今しがたこのアニメのイベントに行ってきたところなのですよ! SF系のお話なのですが何を言ってもネタバレになっちゃいそうなのであらすじは小生の口からはとても言えぬのですが! 私を信じてぜひ見てみてください! もうね、最高最強に面白いのです! 刺さるか刺さらないかは人それぞれですが刺さる人にはマリアナ海溝のように深く刺さる!! 一話だけでも、いやできれば六話まで騙されたと思ってみてほしい……! 最初はあまり注目されなかったけど六話以降から口コミで評判が広がっていった名ストーリーなので! どうか、どうか『スリー・デイズ・バック』に清き一票を!!」

 一通り言い切ってから、自分がただの限界早口オタクになっていることに気づき、瑞季の顔は真っ赤になる。

「す、すみません! こんな早口で言っちゃうと聞き取りづらいですよね」

 少女は涼しい表情で微笑んでいた。

「いいえ、多少聞き取れましたので大丈夫です」

「逆に聞き取れるの? すご。一向にネット用語を学ぼうとしないヒナとは大違い。あ、えーっと、ヒナっていうのは私の友達です。私たちの崇高な趣味をまるで理解しない無礼なやつなんですよ」

 バッグが揺れた気がしたが、瑞季は気にしない。

 そうこう話していると駅まで到着していた。本来であればここから改札に入るのだが、せっかくだから瑞季はそのことを隠し、少女の目的地である犬の銅像までついていくことにした。——と表現すると聞こえはいいが、実際にはもっと話したいだけだった。

 そのままほぼ一方的に瑞季がペラペラ喋り続け、瑞季たちは目的地である犬の銅像まで辿り着いていた。

「これですこれ」

 瑞季は犬の銅像をすぐ側から見上げる。たくましい姿で前を見据える日本犬だった。

「ありがとうございます」

 少女は美しい姿勢でぺこりと頭を下げた。

「いえいえ」

「またアニメの話を聞かせてください」

「ぜひぜひ!」

 笑顔で返答して、一秒置いて瑞季は気づく。

 ——今『また』って言った?

 瑞季の頭は高速回転し、次の言葉を導き出そうとする。「このまま曖昧に微笑んで去ればいい。楽な方を選べ」と陰の瑞季が右耳で囁き、「楽な方じゃなくて楽しい方を選ぼう!」と陽に憧れる陰の瑞季が左耳で囁く。悩みながら右往左往していると、彼女の脳裏にふと高梁星輝たかはしてんし月音優菜つきねゆうなの姿が浮かんだ。この間、たった一秒の出来事である。

 ここで、星輝や優菜から貰った勇気を振り絞らねば……!

 瑞季は紙袋を掴む手にぎゅっと力を入れる。 

「あの……、もしよければ、連絡先を交換しませんか?」


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