第五話「衝突」-5-
星輝が慟哭していたとき、家庭科室から脱出してきたリアハイリンは、倒れた仲間へ励ましの声をかけることさえ押し殺し、スレイヴへと音もなく近づいていた。
そして、大きく息を吸った。
「はあああああ!!」
無防備な背中へ、一撃を叩き込む。
スレイヴが吹き飛ぶ。
だが、怪物は空中で体勢を整え、壁を足場にしてバネのように跳ね返ってきた。
圧縮された筋肉が解放され、砲弾となって襲いかかる。
正面からの衝突。
衝撃を殺しきれず、リアハイリンは後方へ弾き飛ばされた。
離れていくリアハイリンを、スレイヴは執拗に追いかける。
「そう簡単にはやられないよ!」
自分自身が一枚の軽い羽になるイメージを思い浮かべ、空気抵抗を利用して、ふわりと上空へと浮き上がった。
そのままスレイヴは壁に激突するかと思っていた。
しかし、追撃してきたスレイヴが急制動をかけ、跳躍した。
とはいえ、リアハイリンまでは届かない。
怪物は彼女の遥か下方を通過し、四階の外壁に張り付いた。
破壊された窓枠を掴み、重力を無視して垂直の壁に止まる姿は、巨大な蜘蛛そのものだった。
「ハリウッド映画みたいなことするじゃん」
着地したリアハイリンへ向かい、スレイヴは壁を蹴って再加速する。
空中で身体を一直線に伸ばし、錐揉み回転を加えた。
肉体そのものがドリルと化した突撃。
空気を切り裂く轟音と共に迫る死の質量を、正面から受け止める。
拮抗するふたつの巨大な力。
摩擦熱でグローブが白煙を上げ、掌が焼けるように熱される。
踏ん張る足元の地面が悲鳴を上げ、亀裂が走る。
——ズレた。
足場の崩壊により、重心がわずかに狂う。
致命的な隙。
防御が崩され、圧倒的な質量に押し潰された。
脳が揺れ、視界が明滅する。
光の粒子が散り、変身が強制解除された。
中庭は一瞬にして静まりかえる。そこには、グラウンドへと避難した生徒たちの不安げな囁き声だけが、遠くに響いていた。
力の入らない手で、中庭の草を掴む。
霞む視界の先、スレイヴの背中が遠ざかっていく。
破壊欲求を満たすことができる獲物を求めて。
「ダメ……」
震える手足は言うことを聞かない。立ち上がることさえできない。
這いずることだけが、精一杯の抵抗だった。
「行か、ないで……!」
掠れた声は届かない。
たとえ届いても、破壊の化身が止まるはずもない。
——だが。
「止まれ、スレイヴ」
たった一声。
それだけで、怪物は糸が切れた人形のように静止した。
絶対的な命令権を持つ者の声。
「メルキーヴァ……!」
最後の力を振り絞り、身体を捻って仰向けになる。
視界に入ってきたのは、冷ややかな瞳で見下ろす男の姿。
路傍の石ころを見るような、無関心と軽蔑。
「……やれやれ。その程度かい? いやあ、残念だねえ。てっきり、光の連邦に伝わる伝説の戦士ってのは、もっと強いものだと思っていたのに」
屈辱的な言葉に、瑞季はぐっと唇を噛みしめ、目を逸らした。
「いいかい、お嬢ちゃん。この立派な建物の向こう側にはね。君の大切な同胞たちが、何百人も、怯えながら隠れている。さらにその向こう側には、何万、いや、何十万人もの人々が、何も知らずに平和に暮らしている」
嘲笑うような、慈悲深いような、歪な声色。
「君がひ弱で役立たずなばかりに、罪のない人々が危機に陥る。どうだい? 素晴らしい気分だろう?」
「や、やめて……!」
悲鳴は喉に張り付いて出てこない。
視界の端に、ふらつく優菜の姿が映る。
いつの間にか意識を取り戻していた彼女もまた、絶望に立ち尽くしていた。
瑞季は、これまでスレイヴから解放してきた人々の顔を思い出していた。
憧れのヒーローが、ただの作り物だと知り、絶望の淵にいた少年。
音楽性でぶつかり合っていた、ふたりのミュージシャン。
親に自分の夢を認めてもらいたかった、健気な少女。
そして、沙耶。
彼らが再び傷つくなんて、想像するだけで耐えられない。
「みんなを傷つけないで……お願い……」
懇願し、涙を流すことしかできない己の無力さ。
だが、返ってきた答えは意外なものだった。
「いいよ」
あっさりとした承諾。
「この無の邦で無用な虐殺をしちゃうのは、ヘヴンの本来の目的とは反することになるからねえ。それに俺は、君たちのような力なき者を一方的にいたぶるような、下劣な趣味は持ち合わせてはいないし」
ヘヴンの目的——。
思考する間もなく、何かが放り投げられた。
瑞季の胸に当たり、転がったのは金色の鍵。
アンティーク調の外見とは裏腹に、表面には精密機械のような紋様が刻まれている。
「もう一度戦う準備と覚悟ができたなら、その鍵に向かって『デシリア』と唱えな。それがパスワードだ。いつでも俺の元へ招待してあげるよ。最高の舞台を用意してね」
メルキーヴァが踵を返し、静止したスレイヴへと歩み寄る。
「いつまでも待ってあげようとは思う。でもね、スレイヴの素体が刻一刻と生命力を衰弱させていっているということは、くれぐれも忘れてあげないでね」
メルキーヴァが近づいてきても、スレイヴは微動だにしない。先程までの暴虐が嘘のように、主人の前では従順な道具に成り下がっている。
敬慕か、恐怖か。あるいは虚無か。
自らの感情を封じ、ただ命令に従う姿は、文字通りの『奴隷』。
メルキーヴァがスレイヴの腕に触れる。
「またね、お嬢ちゃんたち」
指を鳴らす音が、乾いた空気に響いた。
次の瞬間、ふたつの影は世界から切り取られたように消失していた。
残されたのは、吸い込まれていく空気の渦だけ。
圧倒的な敗北と沈黙が、その場を支配する。
「——瑞季」
霞む視界に、星輝の小さな手の先が入ってきた。
泣き腫らした星輝の目は、瑞季にははっきりとは見えていない。
「……立てるか?」
掴もうとするが、力が入らない。
「ちょっと無理かも……」
「了解」
星輝が右肩を、優菜が左肩を担ぐ。
互いに体重を預け合い、三人は重たい足取りで校舎へと歩き出した。
校舎の中で休んでいた三人は、案の定、駆けつけてきた先生から、こっぴどく叱られることになった。
特に、最初にクラスの中から真っ先に飛び出していった星輝への注意は、非常に大きなものだった。彼女の行動がなかったら、クラス全員がどうなっていたか分からない、という側面はあったにせよ、あまりにも危険すぎる行為だったのだから、仕方のないことだろう。
また、この繋中学校では、以前から、謎の「戦う少女」の噂が、まことしやかに囁かれていた。直接その姿を目撃した者はほとんどいなかったにせよ、「怪物が現れると、どこからともなく、その少女たちが現れて戦ってくれるんじゃないか」と、多くの生徒たちが半信半疑ながらも噂していたのだ。
瑞季たちはその噂を利用し、「自分たちも、その戦う少女たちが怪物と戦っているのを、遠目でちょっとだけ見た」ということで口裏を合わせた。
そんな混乱と喧騒の中で、彼女たちが考えてもいなかったことが、ひとつだけあった。
それは誰もが「戦う少女たち」側が勝ったと思いこんでいる、ということだった。あれだけ暴れ回っていた怪物が、忽然と跡形もなく消え去っていたのだから、そう考えるのが自然なことだろう。
瑞季たち三人は、周囲との認識のズレに、皮肉を感じずにはいられなかった。




