第五話「衝突」-6-
降り続く雨が、窓ガラスを執拗に叩いている。その音が、昼間なのに閉められたカーテン越しに、瑞季の自室に響いていた。
昨日のスレイヴ騒動により校舎が半壊したため、しばらくの間登校禁止となった。現在、瑞季たちはリモートで自宅から授業を受けている。
授業が終わると、瑞季のスマートフォンが、机の上でぶるりと短く震えた。画面には『月音優菜』という見慣れた名前。
瑞季は通知を一瞥し、画面を伏せた。
身体が鉛のように重い。
部屋には、単調な雨音だけが虚しく響いていた。
昨日の敗北。スレイヴの圧倒的な力。そして、メルキーヴァに投げつけられた屈辱的な言葉……。それらが心にのしかかり、彼女からすべての気力を奪い去ってしまっていた。
そんな、沈黙を続ける瑞季の肩に、ふわりと軽い何かが乗っかった。
ヒナだ。
「……瑞季。約束の電話じゃないのかニャ?」
ヒナの声は、いつもより落ち着いていた。
「……だと思う」
「出ないのかニャ?」
「出るよ。今、出るから……」
重たい腕を伸ばし、スマートフォンを手に取った。通知をタップする。メッセージアプリに表示されたURLをタップするとビデオ通話アプリが起動し、画面に優菜と星輝の顔が映し出された。
「あ……。ご、ごめん。ちょっと遅れちゃった」
瑞季は、か細い声で謝った。
〈ううん。大丈夫。わたしたちも繋いだところだから〉
優菜が、いつものように優しい声で答えてくれる。だが、その声の奥に、隠しきれない疲労と不安の色が滲んでいた。
〈なんだか、元気なさそうだね、瑞季〉
「うん。……そうかも」
そこから重苦しい沈黙が続いた。
誰も、次に何を話すべきか、分からずにいるようだった。
〈瑞季。あんまり無理はすんなよ〉
沈黙を破ったのは星輝だった。
〈体調悪かったりしたらさ、遠慮なく切っていいからな〉
「ありがとう。……でも、体調は本当に大丈夫だから」
〈そっか。ところでさ、瑞季。昨日、メルキーヴァから受け取った変な鍵なんだけど〉
瑞季は、机の上に無造作に置いていた金色の鍵を、ゆっくりと手に取った。家の鍵よりも一回り大きく、ずっしりとした重みがある。
「ヒナ。これ知ってる?」
「ぼくも初めて見るものだけど、おそらくヘヴンの空間転移装置じゃないかと思うニャ」
「くうかん、てんい……? なに、それ……?」
「ぼくらを、今いる場所から別の場所へと瞬間移動させるためのものだニャ」
「そんなSFアニメみたいなことできるの?」
ヒナは瑞季の腕から離れ、ふわりと宙に浮いた。ヒナの、ファンタジーな可愛らしいぬいぐるみの姿と、『瞬間移動』というSFチックなワードが、ひどくチグハグに見えた。
「メルキーヴァから聞いたことがあるニャ。ヘヴンは空間転移装置を開発して大きくなった組織だ、って」
〈もしかして、いつもメルキーヴァが突然消えるのも、沙耶のときに、わたしたちが急に森に移動してたのも、それ?〉
優菜が尋ねる。
「いかにもニャ。……スレイヴもヘヴンの発明みたいだし、闇の邦の科学技術は、ぼくら精霊にとっても、恐ろしいものなんだニャ」
〈よく分からないけど……。つまり、昨日メルキーヴァが言ってたパスワードを、その鍵に向かって言えば、莉照くんがいる場所に行けるってこと、だよね〉
優菜が画面の向こうで要点をまとめる。
「メルキーヴァの言葉を鵜呑みにするのであれば、そうなると思うニャ」
「罠かもしれない、ってこと?」
それは、この重たい現実から逃げる言い訳でもあった。
「……可能性は、もちろんゼロではないニャ。だけど、メルキーヴァという男は、そんな卑怯で回りくどい罠を仕掛けるような性格でもないと、ぼくは思うニャ」
「で、でも……! でも、本当に信じていいのかな……。もし、万が一のことがあったら」
〈信じるしかねえだろ〉
星輝が、少し苛立ったような口調で言った。
〈怖がって何もしなければ、莉照は助けられない。違うか?〉
「そ、そうだけど……! でも……! 莉照くんのこと、本当に助けるべきなのか、分からなくて……」
ずっと言うべきかどうか迷っていた、黒くて重たい本音を、ついに口に出してしまった。
「昨日、あんなにボロボロにやられて……。正直、もう勝てる自信なんてないし……。それに、莉照くんには沙耶へのいじめの件だってあったし……! そんな人、私たちが命懸けで助けないといけない人なのかな、って思っちゃって……」
もうこれ以上戦いたくない、という気持ちが確かにあった。
初めて、完膚なきまでの敗北を知った。
あまりにも苦く、惨めな味を知ってしまった。
これまでの戦いでは、幸運にも勝ち続けてきた。だから、心のどこかで調子に乗っていたのかもしれない。自分は特別な存在で、何でもできるのだ、と。
でも、所詮は、ただの中学生。
フィクションの世界とは違う。
越えられない壁が、確かにあるのだ。
自分なんかがヒーローになるなんて、おこがましい——。
自己嫌悪と、諦めに満ちた思いが、心を毒のように侵食していった。
〈……確かに、瑞季にとって莉照は、ただのクソ野郎にすぎないのかもな。でも、ウチにとっては幼馴染でもあるんだ〉
星輝の悲しげな言葉が、そんな瑞季の胸中を鋭く刺激してしまう。
机の下で自分のスカートを強く握りしめていた。
その手は、小刻みに震えている。
〈だから、助けないわけには——〉
「——戦わないくせに、そんなこと言わないでよっ!!」
とうとう、瑞季の胸の中で、ぐつぐつと煮えたぎっていた黒い液体が、突沸してしまった。
「戦うのは優菜と私なんだから! そういう偉そうなことは変身してから言ってよ!」
〈ちょっと! みず——!〉
優菜の制止の声は、鈍く歪んだ音に遮られた。
「!」
何が起きたのか分からなかった。
星輝の画面が揺れているのに気づくまでは。
少しずつ揺れが収まっていく画面の中で、彼女の顔が怒りと悔しさで歪んでいるのが見えた。
〈分かってるよ! そんなことっ!! ウチだって……! ウチだって、みんなと一緒に戦いたいんだよ……!〉
「え……?」
瑞季は言葉を失った。
〈優菜が初めて変身したときも! 沙耶のときも! 昨日も! ウチは黙って見てたわけじゃねえんだ! この宝石を強く握りしめて、何度も祈ってたんだよ! ……でも、結局、ダメだったんだ……〉
徐々に彼女の声が濡れていく。
〈戦わないくせに言うな、なんて言うんだったらさ……! 教えてくれよ! ……なんでウチだけが変身できないんだ! ……なあ! 教えろよ! 答えろよぉぉぉっ!!〉
〈星輝! 落ち着いて!〉
優菜が必死に叫ぶ。
沈黙の中、星輝は、ギリリ、と奥歯を食いしばりながら俯いた。
自分の中から噴出しそうになる、どうしようもない気持ちを、なんとか、必死に押さえつけているようだった。
そして、彼女は腰掛けていた回転椅子ごと、くるりとカメラから身体を外し、腕を組んでそっぽを向いてしまった。
〈……ごめん。言いすぎた〉
「こちらこそ、ごめんなさい」
瑞季もまた、か細い声で謝った。
でしりあへの変身は誰にでもできるのだと思っていた。
だから、星輝は戦いたくないのだと思っていた。
彼女も変身しようとしていたなんて、考えたこともなかった。
仲間思いの星輝が、昨日の幼馴染との戦いを、ただ黙って見ているはずなどない。しかし、彼女自身には戦う力がない。
そのことに、星輝がどれほど悔しさを噛み締めたか。
不意に、優菜がヒナに尋ねた。
〈ねえ、ヒナ。変身するための条件とかってあるのかな。適性とか〉
「分からないニャ。過去にデシリアが誕生したのは、記録の上では一度だけ。研究なんてされてないニャ」
〈そっか〉
「ねえ、優菜」
瑞季は、か細い声で尋ねた。
「本当に、私たちはヒーローになれるのかな」
〈とっくになってるよ、瑞季〉
「そ、そうじゃなくて……」
〈そうじゃなくて、も何もないよ〉
優菜は、力強く続けた。
〈ヒーローだって、負けるときは負ける。そうでしょ? たとえ心が折れたとしても、必ず立ち直り、パワーアップする。そんな姿こそ、瑞季のなりたいヒーローなんじゃない? 少なくとも、わたしはそんなヒーローになりたい。もちろん、すっごく怖いよ。昨日のことを思い出すだけで吐き気がするくらい。……でも、諦めるのは、もう一度負けてからでもいいんじゃないかな〉
優菜の言葉に、瑞季のささくれ立った心を、解きほぐされていく。
「……優菜は、強いね」
〈そんなことないよ。綺麗事を並べて、なんとか前を向き続けられているってだけ〉
戦うのは怖い。
痛いのは嫌だ。
逃げ出したい。
でも、ここで諦める自分になるのは、もっと嫌だ。
「瑞季」
不意に、肩の上のヒナが語りかける。
「戦う力のないぼくが言うのも、おこがましいかもしれないけど、もう一度だけ、勇気を出してほしいニャ。ぼくは、瑞季なら次は勝てるって信じてるニャ」
「なんで?」
「勘だニャ」
きっぱりとした即答だった。
「正直に言うとだニャ……。先週、目を覚ましたときは、瑞季がデシリアになるだなんて、これっぽっちも思ってなかったニャ。ただの生意気な子供だとしか思えなかったニャ」
「ヒナにだけは、生意気って言われたくないんだけど」
クスッと笑う瑞季。
それを見て、ヒナは安堵の笑みを見せた。
「でも、瑞季がぼくを助けてくれて、スレイヴとなった子と向き合ったとき、確信したんだニャ。陳腐な表現かもしれないけど、瑞季がぼくを拾ったのは運命だったんだニャ、って……。あのときから、ぼくはずっと瑞季を信じてるニャ。アニメキャラの胸が揺れるのを見て、鼻の下を伸ばしてる瑞季を見ていると、不安になるときもあるけど」
「伸ばしてない」
「スレイヴが現れたときの瑞季を見るたび、ぼくを拾ってくれた人が瑞季でよかったと、安心するんだニャ」
ヒナは瑞季の潤んだ瞳をまっすぐに見つめ、言い切った。
「たとえ、瑞季が瑞季自身を信じられなくても、ぼくは瑞季を信じてるニャ」
瑞季は、ヒナの温かい言葉に笑いながら、溢れ出てくる涙を袖で乱暴に拭った。
「ただのぬいぐるみが励まさないでよ」
「ただのぬいぐるみじゃないニャ。精霊だニャ。空の邦の王子だニャ。王子様の御言葉をありがたく受け取るニャ」
「はいはい、うるさいうるさい。——そうだよね。私のなりたいヒーローは、こんなところで諦めたりしないよね。まだまだ、私は踏ん張れる。……ありがとう、みんな」
ヒナと優菜は、そんな瑞季の姿を見て、穏やかな笑みを浮かべていた。
そっぽを向いていた星輝も、いつの間にかカメラに顔を向け、ほっとしたような表情を見せていた。
しかし、すぐに、また俯いてしまった。
星輝は暗い声で話す。
〈なあ。……戦えないウチは、やっぱり行くべきじゃないよな。行っても、ふたりに迷惑かけるだけだろうし〉
「迷惑とかそんなのないって。それにさ、変身して戦うのだけがヒーローじゃないよ」
自然と言葉が溢れ出してきた。
「私も、きっと優菜も、今まで星輝にはたくさん助けられてきてる。星輝も、もう立派なヒーローなんだ。だから——」
以前、星輝にかけられた言葉を、今度は星輝にかけてあげる番。
「もし私たちがヤバくなったら、助けてほしいな。——ヒーローさん」
星輝の表情がみるみる明るくなっていく。
星輝は、ぱん、と景気良く手を叩いて、高らかに宣言した。
〈——よしっ! 決めた! ウチも行く! 行くからには、絶対に役に立ってみせる! ……だから、よろしくな、みんな!〉
「うん!」
〈もちろん!〉
「ぼくも戦えないなりに頑張ってみせるニャ!」
雨は相変わらず窓を叩き続けている。
しかし、すでに瑞季の耳にその音は届いていなかった。
〈よし! 景気づけにみんなで声出そうぜ〉
〈うん、いいね。じゃあ、音頭はよろしくね、瑞季リーダー〉
「え、私!?」
画面の向こうで、優菜と星輝が期待の眼差しを向けている。
リーダー。その響きに、背筋が伸びる思いがした。
瑞季は深呼吸をして、自分の頬を両手でパンと叩く。
「よしっ!」
画面越しの仲間に向かって、高らかに叫んだ。
「みんな、行くよ! 莉照くんを助けて、メルキーヴァに目にもの見せてやろう!」
〈おう!〉
〈うん!〉
「おーっ!!」
三人と一匹の声が重なる。
それぞれの場所で、それぞれの想いを胸に、高々と拳を突き上げた。




