第四十三話 創生の目醒め
愛した人の心臓を、この手で貫く――そんな残酷な儀式が、果たして許されていいはずがない。
「うそだろ……。なんでリンを殺さなきゃいけないんだ。何だよそれ……どういう儀式だよ。何の意味があるんだ?」
俺の口から出たのは、情けないほど震えた声だった。
足元には、禍々しくも神聖な光を放つ円陣が広がっている。その中心、眩い光の奔流の中に、ぽつりと佇む一人の女性の姿があった。
俺は信じられないという思いで目を見開き、彼女と視線を合わせる。その瞳、その輪郭、すべてがかつて失ったはずの最愛の妻のものだった。
「リンなのか? 本当にリンなのか……!?」
『ゲン、わたしよ。うまく伝えられないけど……あの少女に、呼び戻されたみたい』
光のなかに立つリンは、かつてと変わらない穏やかな声で微笑んだ。しかし、彼女の口から告げられた言葉は、あまりにも凄惨で、受け入れがたいものだった。
『聞いたわ。私をその刃物で殺すのよね。――私は承諾したわ。だって、あなたとソウのためになるのなら、この命は懸けられる。もう、とっくに尽きた命だもの。だから……私を殺して……』
リンは愛おしそうに俺を見つめながら、そっと両手で自らの胸を押さえる仕草をした。そこに刃を突き立てろと、無言で促してくる。
「何を言ってるんだよ……!」
俺は激しく首を振った。胸の奥からせり上がる怒りと絶望で、視界が歪む。
「愛したお前を、簡単に殺せるわけないだろ! あんな、どこの馬骨ともわからない少女の言葉を、どうして信じられるっていうんだ!」
力が欲しい、それは事実だった。大切なものを守るため、運命に抗うための圧倒的な力が、今の俺には必要だ。
だが、なぜその代償が「妻の殺害」でなければならない? なぜこれほどまでに不条理な選択を、俺がしなければならないんだ。
『時間がないの、ゲン……』
リンの表情が、わずかに悲しげに曇る。だが、その瞳に宿ったのは、揺るぎない、確かな覚悟の光だった。
『あなたが自分の手で、その刃物を私に刺すの。この心臓を貫いて。さあ……早くして』
無理だ。そんなの、無理に決まっている。
最も信頼し、最も近くで見続けてきた笑顔。誰よりも愛し、生涯を添い遂げると誓った女性。その胸に、自分の手で冷たい刃を突き立てるなど、できるわけがない。
「お、俺にはできない……」
俺は刃を握る手を震わせ、一歩後退りした。
その時、足元に広がる黒い水面――底知れぬ闇の奥から、ゆらゆらと不気味な影が這い上がり、俺の耳元でねっとりと囁いた。
『それじゃ……何も変わらない……。ねえ……? あの子も報われないよ……ボクも……報われない……』
正体の見えない少女のシルエットが、水の波紋のように揺れている。その言葉が、俺の逆鱗に触れた。
「ふざけるな! お前に何の関係がある! ただそうやって、俺たちを弄んで楽しみたいだけだろ! 力を貸せるなら、余計な真似をせずに貸せよ! リンを殺すことに、一体どういう意味があるんだ!」
俺が怒髪天を突く勢いで怒鳴りつけると、少女の輪郭を形作っていた黒い粒子が、激しく動揺するように揺らいだ。
『ボクは……君たちと同じなんだよ……。悲しい思いをして……憎い……すべてが、憎いんだ……』
少女の声には、怨嗟の中にどこか深い哀愁が混じっていた。ささやきを最後に、少女の姿はパラパラと黒い炭の粉へと変わり、そのまま水面へと溶けるように沈んでいった。
周囲に残されたのは、ただ静かに輝く円陣と、リンの幻影だけだった。
『ゲン……いい加減にして。言ったでしょ?』
リンの凛とした声が、俺の心を打つ。
『二人は欠けてはならないの。あの子のために――ソウのために、あなたは生き残って、守っていかなきゃいけないの。私は一度先に死んでしまった身だけど……あなたにはまだ希望がある。ソウを、私たちの子供を守れる希望が残されているの。私にできるのは、もうこれだけなのよ』
「でも……!」
『“でも”じゃない。子供じゃないんだから』
リンは少したしなめるように言うと、ふっと緊張を解き、いつか日常の中で見せてくれたような、柔らかく穏やかな微笑みを浮かべた。
『大きな体をして、食欲旺盛で、時々馬鹿みたいなことばかりするあなた。――でもね、いざという時は誰よりも頼りになる。私は、そんなあなたのことが大好きだった。こんなところで、大好きなあなたに失望させないで。ゲン……私の最後の願い、聞いてくれる?』
「……っ」
俺の喉が、感情の塊で詰まる。
リンの瞳は、真っ直ぐに俺だけを捉えていた。そこには恐怖も、恨みも一切ない。ただ、残される夫と息子への、果てしない慈愛だけがあった。
「……わかった」
俺は、震える足で一歩前へ踏み出した。
「覚悟は、できているんだな。……きっと、ものすごく痛い。許してくれ、リン」
少女から手渡された、不気味に黒光りする刃物。その切っ先を、ゆっくりと、リンの豊かな胸の、ちょうど心臓がある位置へと向けた。
「ごめん……」
刃を突き立てるその一瞬、俺の脳裏に奔流のような走馬灯が蘇る。
初めて出会った日のこと。
何気ない日常の中で、二人で声を上げて笑い合った日々。
ソウが生まれ、三人で肌を寄せ合って、その温もりに涙した記憶。
茜色に染まる夕暮れの帰り道、手を繋いで歩いた幸福な時間。
そのすべてを、この手で壊そうとしている。
持っている刃物が、鉄の塊とは思えないほど重く感じられた。手が、腕が、全身が、拒絶するようにガタガタと震える。
だが――決めたのなら。彼女の覚悟を無駄にしないと誓ったのなら!
俺は奥歯を噛み締め、涙を振り払うようにして、一気に腕を突き出した。
――ザスッ。
肉を割き、骨を断つ、鈍く悍ましい音が静寂を切り裂いた。
『あ゙っ……――』
リンの口から、掠れた苦悶の声が漏れる。
漆黒の刃は、彼女の胸の深奥へと容赦なく沈み込んでいった。ドクドクと溢れ出た鮮血が、純白だった彼女の衣服を赤く染め上げ、足元の光の円陣へと滴り落ちる。血を吸った円陣は、それまでの輝きから一転し、禍々しい橙色の灯火へと強く揺らめいた。
「ごめん……ごめん……! リン、ごめん……!」
俺は子供のように声を上げて泣いた。嗚咽が止まらない。
深く突き刺さった刃は、根元の柄が彼女の胸へと叩きつけられ、それ以上は進まないところまで完全に埋まっていた。
俺は崩れ落ちる彼女の体を両腕で強く抱きしめ、血の気の引いていくその顔を必死に覗き込んだ。
『愛してる……、ゲン……』
「俺もだ……! 俺も愛してる、リン……!」
リンは口元から一筋の血を流しながら、最後まで、満足そうに微笑んでいた。
やがて、抱きしめていた彼女の体から、すうっと力が抜けていく。重力を失ったかのように、彼女の肉体は眩い光の粒子へと崩壊を始めた。バラバラと解ける光の粒は、すがりつく俺の腕をすり抜け、円陣の軌道に沿って激しく渦巻き始める。
それは、彼女の「魂」そのものだった。
暴風のように吹き荒れる光の渦。その中心から、一筋の最も強い光が、まっすぐに俺の胸へと飛び込んできた。
――ドクンッ!
心臓が大きく跳ね上がる。
その瞬間、俺の脳内に、リンの記憶が濁流となって逆流してきた。
それは、リンの視点から見た俺の姿だった。いつも不器用で、大食いで、それでも必死に家族を愛そうとしていた俺の笑顔。そして、二人の宝物であるソウの愛らしい泣き顔と笑顔。
リンの生前の記憶のすべてが、温かい愛のメッセージとなって俺の中へと流れ込んでいく。
俺は胸を押さえ、ただひたすらに涙を流し続けた。
その時、再び黒い水面が揺れ、そこからあの少女が現れた。
しかし、先ほどまでの黒一色のシルエットではない。今の少女の姿は、光と闇を象徴するように、黒と白が綺麗に半分ずつ混ざり合った、神秘的な姿へと変貌を遂げていた。
『儀式は成功した。親しき者を、自らの手で殺したね……。さあ、その魂の契約を以て、この力を解放しよう』
少女が、静かに俺へと手を伸ばす。
ドクン、ドクンと、俺の鼓動が加速する。
俺の肉体から、まるで古い殻を脱ぎ捨てるかのように、黒い炭素の粒子が大量に舞い上がった。細胞の奥底、DNAのさらに深淵に封じられていた「遺伝子の記憶」が、濁流となって一気に解放される。
あまりにも膨大な情報量に、俺の脳は焼き切れんばかりの衝撃を受けた。
見えたのは、現代の景色ではない。遥か未来、あるいは過去の、血と硝煙が立ち込める歴史の断片だった。
戦場を駆ける、一人の男の後ろ姿が俺の目に飛び込んでくる。
その身に纏うのは、燃え盛る炎の如き真紅の甲冑。威風堂々とした佇まいで、数多の兵を率いるその男の名が、俺の脳裏に直接刻み込まれる。
――武田信玄。
領民を慈しみ、彼らのために豊かな国を作ろうと願いながらも、ひとたび戦場に立てば、敵を震撼させる修羅の如く立ち塞がる。その圧倒的なカリスマ、理不尽な世界を力でねじ伏せる強さ。
なぜ、この絶望の最中に彼を見たのかは分からない。だが、俺は直感的に理解した。この武将こそが、今の自分が「こうなりたい」と激しく渇望した理想の姿、その具現なのだと。
少女の声が、俺の頭の中に響き渡る。
『祖魄と通ずる力は、私たちの現在、そして未来へと繋がる。私はここで待っている。君たちがあの王国を止め、歪んだ因果を断ち切ることを……。さもなくば、この先の人類は生まれず、世界は無へと帰すだろう。さあ、創生の時だ。君がその身に宿し、行使する力の名を紡げ』
リンをこの手で救えなかったという、裂けるような痛みは消えない。この胸を焦がす罪悪感は、一生背負っていかなければならないだろう。
だが――。
彼女が、自らの命を賭してまで望んだ未来がある。
ソウを守り抜き、父親としての背中を見せなければならない理由がある。
ここで立ち止まることなど、愛した妻への最大の裏切りだ。
「おおおおおおおッ!!」
夕陽のように赤黒く揺らめく灯火の中、俺は全霊の咆哮を上げた。天を仰ぎ、胸の奥底から湧き上がる莫大なエネルギーを、その言葉へと乗せる。
「我が源、我が身に宿らせ――祖魄創臨!!」
刹那、俺の周囲を覆っていた黒と白の粒子が、爆発的な勢いで舞い上がった。
細胞の可逆進化と超進化が数千、数万回と超高速で繰り返され、俺の肉体は、俺が深層心理で望んだ「最強の姿」を再現するために、ドロドロと再構築されていく。筋肉が引き締まり、骨格が強固になり、魂のエネルギーが実体を持った物質へと変貌していく。
やがて、激しい光と闇の奔流が収まったとき。
そこには、涙を拭い去り、鋭い眼光を放つ俺の姿があった。
俺の全身には、血の儀式を経て手に入れた、圧倒的な威容を誇る「真紅の甲冑」が、不気味なほど美しく、力強く、完璧に装着されていた。
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