第四十二話 祖魄への儀式
茂みが激しく揺れ、そこから一人の男が姿を現した。
その佇まいは、明らかにこの場の平穏を乱す異質なものだった。水色の坊主頭に、常人の二回りはある分厚く頑強な肉体。男がただそこに立っているだけで、周囲の空気が重く澱むような、悍ましいオーラが放たれている。
(こいつだ……! 間違いない、こいつがリンを……!)
俺の脳裏に、冷たい怒りが火花を散らした。こみ上げる衝動のままに、歩み寄ってくる坊主頭の男を鋭く睨みつける。
「お前がリンをやったのか?」
「ああ? 何だお前、この女の旦那か?」
男は小馬鹿にしたように鼻で笑うと、肩に担いだ無骨なライフルを軽く叩いた。
「このライフルも、ちょっとばかし俺の腕が良いせいでヘッドショットになっちまった。本当は腹部を狙うつもりだったのにな。楽しみにしてたのによ。上物と久々に会ったと思ったからな。犯しながら悲鳴に喘ぐ姿を想像するだけでも、下半身がビンビンになってくるぜ……」
男の口から吐き出される、悍ましい侮辱の言葉。一つ一つが俺の神経を逆撫でし、脳が沸騰しそうなほどの激昂が襲う。だが、ここで理性を失えばソウを守れない。俺は深く息を吸い込み、無理やり心を落ち着かせた。
奴が下劣な自分語りを続けている隙に、俺はリンの遺体の傍で震えているソウへと素早く歩み寄る。
「母さんのそばにいてやってくれ。危なくなったら、村長の所まで走って逃げるんだ。いいな?」
ソウは恐怖に目を見開きながらも、こくんと小さく頷いた。その健気な頭を一度だけ強く撫で、俺は再び坊主頭の男へと向き直る。一歩、また一歩と奴との距離を詰めながら、怒りを殺気へと変えていく。
「お前だけは、絶対に許さない。――宿れ!」
俺の叫びに応じ、身体が瞬時に形態変化を遂げる。腕には巨大な橙色牙の王との強靭な外骨格が、そして背中には超高速の機動力を生むフライバエの因子が宿る。
「あ? 何だお前、ヘンテコ――」
奴が言い終わるより早く、俺は有無を言わせぬ速度で踏み込んだ。視界から消えるほどの超加速。リンを奪い、その尊厳すら踏みにじった男への殺意だけが、俺の身体を突き動かす。
「死ねッ!」
腕刀と化した右腕の大剣を、奴の分厚い胴体めがけて真横に一閃した。
重々しい衝撃音と共に、男の巨躯がふわりと宙に浮く。そのまま、弾き飛ばされた砲弾のように後方へと吹き飛んでいった。メキメキと音を立て、太い大木が一本、二本、三本とへし折れていく。
(よし……!)
ソウのいる場所から十分に離れた。わざとあの方向へ吹き飛ばしたのだ。これで、心置きなく目の前のゴミを解体できる。
「痛ってぇな!! クソ野郎がよ!!!」
へし折れた木々の奥から、坊主頭の男がのっそりと立ち上がった。その額には青筋が幾重にも浮き出ており、まるで地獄の般若のような形相に変貌している。あれだけの重撃を食らいながら、大したダメージは受けていないようだ。
直後、奴が手にしていた細長いライフルが、生き物のようにグニョリと形を変えた。瞬く間に銃身が太く短い連射特化の形状へと変貌し、無骨なマシンガンへと姿を変える。
――ババババババッッッ!!!
鼓膜を押し潰すような爆音が響き渡り、飛び散る薬莢と共に、無数の弾丸が嵐のように掃射された。
「くっ!?」
一発が俺の肩をかすめて肉を削ったが、すかさず右腕の大剣を盾にして身を縮める。
カンカンカンと激しい金属音が連続し、弾丸を防ぐことはできた。だが、一発一発の威力が異常に重い。着弾の衝撃が、大剣を通じて俺の全身の骨を激しく揺さぶる。
これほどの威力を持つ近代兵器は見たことがない。やはりこいつは、王国の追手か。しかし、その異質さは群を抜いている。
ガードし続けている形態変化した腕から、シューと肉が焦げる嫌な音が聞こえた。見れば、大剣の表面に無数の弾痕が刻まれ、黒く焼け焦げている。
「クソが……!」
攻勢に出るタイミングを測ろうとした、その時だった。どこからともなく、感情の起伏が一切ない、機械的な女性の声が耳元に響いた。
『コードネーム:ガニメデ――同期』
『全デバイス同期完了。制限解除――戦闘モードへ移行』
次の瞬間、世界が一変した。
世界が真っ白に冷え切っていくような、強烈な感覚。これまでに一度も経験したことのない、本能的な悪寒が背筋を駆け抜ける。それは精神的な恐怖ではなく、物理的な「極低温」の襲来だった。
ちらりと視線を走らせると、緑が生い茂っていた熱帯の周囲の木々が、一瞬にして白く凍りついている。
あまりの異常事態に戸惑いを隠せず、俺の警戒の構えが、ほんの一瞬だけ緩んでしまった。
「ガラ空きだぞ?」
冷徹な声が、死角である真後ろから聞こえた。
「なっ――!?」
奴の気配を完全に失念していた。声を認識した瞬間には、すでに手遅れだった。
ガードを解いてしまった俺の顎へ、下からえぐり込むようなアッパーカットが叩き込まれる。真っ白な霜を纏った奴の拳が、容赦なく俺の顔面を打ち抜いた。
バキ、と頭蓋の奥で嫌な音が響く。俺の身体は錐揉み回転しながら宙へと舞い上がった。視界が急速に明滅し、光を失っていく。
凍りついた拳の威力は想像を絶していた。顎の骨は粉々に砕かれ、全身にまとわりついた霜が体温を急激に奪っていく。そのまま意識を保つこともできず、俺の身体は地面へと叩きつけられた。
視界は完全に真っ暗になり、何も見えない。
遠くで微かに、朧げな景色が明滅している。……これは、走馬灯か。
(リン、ごめん……。敵を討つはずだったのに……。俺は、ここで死ぬのか……? お前との夢を、何一つ果たせないまま……)
暗闇の向こうから、奴の嘲笑うような声だけが、現実の繋がりとして鼓膜に届いていた。
「やれやれ、雑魚が調子に乗るから、そうなるんだよ。あーあ、妻も守れず、おまけに自分も死ぬ。そしてお前たちの子供も俺に殺される。終いにゃこの村の連中もだ。まあ、お前はまだマシな方だぜ?」
男――ガニメデは、吐き気がするほどの愉悦を噛み締めながら、独り言のように喋り続けている。
「さっきいた別の家族はさ、男の目の前で女を犯してやったんだ。傑作だったぜ。リアルだと最高に気持ちがいい。そしてな、最後に絶望してる奴らの頭に銃を突き付けて撃ち抜いた瞬間――『バンッ』ってな。あれは本当に最高だった」
言葉の端々から滲み出る狂気。奴は完全に、この殺戮を楽しんでいる。
「にしても、村人を殲滅するなんてな。あのトカゲ共と一緒にされるのはうざってえが仕方ねえ。王族との約束だからな。あいつら気に食わないが、コアのことについて取引してくれるようだから手を貸してやってんのに、まったく。あーあ、ここに来てから独り言が増えたようだぜ」
ガニメデの不愉快な声が遠ざかっていく。
俺の意識は肉体を離れ、どこまでも深い、底なしの深層意識へと彷徨い落ちていった。
◇
気がつくと、俺は見渡す限りの暗闇の中にいた。上下左右の感覚すら曖昧な空間を、足元を探るようにして歩く。
(ここは、どこだ……?)
すると、暗黒の霧の向こうから、一人のシルエットが現れた。その輪郭は徐々に変化し、見覚えのある形を成していく。
(リン……? リンじゃないか!)
それは最愛の妻の姿だった。彼女は穏やかな様子で、俺の手をそっと引く。
(迎えに来てくれたんだな……。とうとう、俺もそっちの世界に行けるんだな……)
絶望の淵にいた俺は、喜んでその導きを受け入れようとした。だが、リンは繋いでいた俺の手を、そっと静かに離した。そして、何かを必死に訴えかけるように、唇を動かす。
『ゲン、ソウを守って……』
確かに、そう聞こえた気がした。
直後、彼女の姿は眩い光の粒子となり、暗闇の中へと綺麗に霧散していった。
「待て! 待つんだ、リン……! 置いていかないでくれ……! 一人にしないでくれ、頼むから……!」
虚空に向かって手を伸ばすが、何も掴めない。
胸を引き裂くような寂しさと無力感が押し寄せる。現実世界に残してきた息子の顔が浮かんだ。
(ソウ……ごめんな。父さん、負けちまったみたいだ。守れなくて、本当にごめん……。リン……俺は……)
俺はポロポロと涙を流しながら、闇の中で膝を抱えてうずくまった。己の弱さが情けなくて、ただ子供のように啜り泣くことしかできない。
その時、静まり返った闇の水面に、ぽつりとドス黒い球体の物質が浮かび上がった。
油のようにドロドロとしたその物体は、脈動しながら、徐々に一人の少女の輪郭へと変形していく。
以前、世界の境界で出会った少女に似ている。だが、明らかに様子がおかしかった。今の彼女は、光を一切寄せ付けない、純粋な「悪意」そのもののような真っ黒なシルエットだった。
『ねえ、ボクの力、貸してほしい?』
少女の、幼くも冷徹な声が暗闇に響く。
『ねぇ、悲しい? 怒り? 何も出来ない自分への劣等感? ――憎いでしょ。私も憎い。憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い……!』
呪詛のような「憎い」の言葉が空間を埋め尽くしていく。少女の影が激しく蠢く。
『この世界の全てが憎い。――あなたは、私を助けてくれるんでしょ?』
少女の問いかけが、俺の胸の奥底にある、冷え切った殺意の火種に薪をくべた。
奴を殺せるなら。あの坊主頭を地獄に引きずり落とし、ソウを守るためにもう一度現世に戻れるのなら、悪魔に魂を売ったって構わない。
「ああ、君を助ける。力をくれ」
『本当? やっぱり、あなた、あの人とどこか似てる気がする。いいよ、力を貸してあげる。――但し、儀式をして』
「あの人? ……フン、誰だっていい。力をくれて、あの坊主頭を八つ裂きにできるのなら、俺は何だってやってやる……!」
『聞き分けがいいね。じゃあ、あの儀式の間に立って。そこに現れる人物を、この刃物で刺し殺しなさい』
少女のシルエットは、そう言い残すと黒い粒子となって融解するように消え去った。
同時に、俺の目の前にぽつりと橙色の灯火が灯り、それを囲むように巨大な円形の陣が出現する。陣の内部には、まるで生き物の血脈が這い回っているかのような、禍々しい幾何学模様が浮かび上がっていた。
「殺す……?」
気がつくと、俺の手には一振りの刃物が握られていた。周囲の光を全て吸い込むような、不気味なオーラを放つ漆黒の刃。
これで、誰を殺せというのだ。
だが、迷いはなかった。誰がここに現れようと関係ない。あの男を殺す力を手に入れるためなら、俺はどんな大罪をも背負う覚悟だった。
俺は漆黒の刃を強く握り締め、ゆっくりと、円陣の中央へと歩を進める。
揺らめく灯火の光が、陣の中心に一人の人物の姿を映し出した。
それを見た瞬間、俺の心臓は凍りついた。
「え……?」
息が止まる。手元が激しく刻み、握った刃がガタガタと音を立てた。
「う、嘘だろ……。そんなバカなことがあるかよ……」
光の中に佇んでいたのは、他でもない――リンだった。
彼女は死んだはずだ。ついさっき、あの男の銃撃によって命を落としたはずなのに。
なぜ、お前がそこにいるんだ――。
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