【ESCAPE】
色のない街を歩いている。すぐにこれは夢だと気がつくが、その世界からすぐには逃れられない。いつもの、嫌な夢に身体を委ねるしかなかった。
その街は同じ夢を何度も見ているはずのにいつでも知らない街で、知らない人が知らない通りを行き交っていた。たくさんの人がいるのに、この世界では誰も自分のことを知らないということが何よりも悲しかった。
時刻はもうすぐ夜を迎える頃で、通りにはおそらく帰宅する人々で溢れていた。仕事を終えて子供を抱き上げる父親、母親に手を引かれて家路を辿る少女、明日の約束をしてそれぞれ走り去っていく少年たち。影のように通り抜けていく知らない人々の知らない日常がより一層焦燥をかき立てる。
帰りたい。
家路に向かう人々と反対に歩きながら、自身の境遇を呪う。帰る場所もない、名乗る名前もない、誰にも頼れない。何もなさすぎて、そのまま雑踏に溶けて消えてしまうのではないかと思った。いつから寝ていないのか、いつから食べていないのか。はっきりと覚えていないがどちらも遠い昔のように感じられる。どこか落ち着ける場所を探すが、どうせそんなものはないことはよく知っていた。
あるはずのないものを探さなければならない。その辛さだけが胸にずしりとぶら下がっていた。歩を進めるたびに、雑踏から様々な声が聞こえてくる。
『生きていても仕方ないよ』
『もう皆死んでいるんだよ、はやく楽になればいい』
『まだ死んでいないのか、この意気地なしが』
『生きる価値なんかない、さっさと死ねばいいのに』
無数の後悔に心を切り刻まれているうちに、いつの間にか空はすっかり暗くなっていた。色のない街にのっぺりとした濃い青が重苦しくのしかかり、残酷に灯る家々の明かりが星のように温かそうに空に浮かんでいる。どこにも行く場所がないのに、とうとう夜になってしまった。いよいよ焦りと疲労が頂点に達する。
このままだと、よくない。
これは夢であるとわかっているので、歩いている向きを変えて一気に駆け出す。この後、酷いことになるのがわかっている。せめて夢の中だけでも、嫌なことを回避したかった。夢の中は走っても疲れず、どんどん足が前に進む。知っているような知らないような道を出鱈目に走って、ようやく立ち止まった。これで悪夢から逃れられる、と思ったところで目の前が歪み、気がつけば元の通りに立っていた。
目の前には、大きな通りから人目を避けるように伸びている細い路地がある。その路地の先に何があるか、もちろん知っている。とてつもなく無様で、汚らわしくて、思い出したくもないほどの嫌悪感が体中を駆け巡る。
「ダメだ、行くな!」
自分で声に出して、そして同時に声に驚いて跳ね起きた。急いで全身を見渡して怪我がないことを確認し、それからここがどこであるのかを考えた。室内の清潔なベッドの上、頭上には天井がしっかりあって空は見えない。ベッドの上なので身体は汚れていない。ここは誰かの家の、誰かのベッドだ。そこまで認識して、ようやく現状を思い出す。
「……そうだ、ライラの部屋だ」
そう呟いて、天井を見上げながら再度横になった。窓の隙間から漏れる光で、かろうじて今が夜でないことがわかった。前回ようやく眠くなったときは、確か昼の時間だった。一体自分はどれだけ眠っていたのだろうか。数時間眠れていれば、それでいい。数十分か、それ以下かもしれない。外で寝起きしていた頃は、太陽や月の傾きで何となくの時刻を概算していた。それがわからない薄暗い部屋の中で、今までのことをぼんやりと思い出す。
名前も居場所も全部失って、何度も死のうと思った自分を救ってくれた女性がいた。もう一度生きていていい、もう自分を殺さなくていい、誰も傷つけなくていい。そう言ってくれたから、もう一度やり直そうと思った。調子が戻るまで休んでいていい、と行き場所のない自分を引き取って部屋に住まわせてくれている。こんなに幸せなことが今まであっただろうかと思いながら目を閉じる。
そうだ、これは幸せなんだ。
そう自分に言い聞かせる。全てを無くしたと思っていたあの日に比べれば、ひどくまともになったではないか。落ち着いて寝られる場所はあるし、今は食事だって彼女が作ってくれる。ここに連れてこられてからはしばらく不安定な日が続いたが、今は少し悪夢を見るくらいまでには回復した。
「でも、これからどうすればいいんだろう」
天井を見上げながら独り言を呟き、慌てて何も考えないようにする。何も考えない、ただ目の前の幸せを享受しろ。こんな機会はもう二度と巡ってこないかもしれない。
今が一番幸せ。今が一番幸せ。
何度も何度もそう心の中で反復する。そうしているうちに窓の外が暗くなり、この部屋の主である「発起人ライラ」が帰ってきて、ランプに灯りを入れた。
「……どう? 少し眠れた?」
「うん、少し。多分、自分の力で」
そう言って、レキ・ラブル――かつてジェイド・カラン・エディアと亡国の王族の名前とティロ・キアンというリィア王家を破滅に導いた孤児の名前を持つ男は、静かにため息をついた。
「ところで、もう何日くらい経ったんだ?」
「そうね……もうあれから三週間くらい経つかしら」
そう、と呟いて彼はまたため息をついた。先ほどまで空は明るかった気がするが、いつの間にかもう夜になっている。それを無駄に三週間も繰り返してきたのかと思うと自分が情けなくなってくる。
「まあ、焦っちゃダメよ。のんびり、いきましょう」
「そうだ、そうだよね……」
これでいい、これでいいはずだ。湧き上がってくる謎の焦燥を押さえつけて、レキは平静を装った。あとはここで穏やかに夜明けを待てばいい。そう自分に言い聞かせた。
そういうわけで始まりました第三部「解明編」です。最後に向けて参りますのでよろしくお願いします。この話は第二部「全容編」の直接の続きになりますので、よければ以下のリンクから今までのあらすじをご覧になって頂けるとより楽しめます。
【あらすじ、解説文置き場】
https://ncode.syosetu.com/n5406kp/
次話、「追憶編」が始まります。ライラとレキが急に同棲している経緯に加えて、具体的な彼の処分やゼノスとの「話し合い」、そしてフォルスの「言いたかったこと」など今まで未回収の伏線が続々回収される予定です。なお次回の更新は10月5日以降を予定しています。あらすじや解説等を読んで待っていてもらえると助かります。
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